石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

亜熱帯と悲哀

田中一村記念美術館 に足を運びました。

イメージ 1

数年前の奄美市訪問の際に初めて訪れましたが、田中一村の名前すら知らない状態でしたので、「この作品はどこかで見たことあるなぁ~」ぐらいの感覚でした。その後、一村の作品に出会う機会があり、改めてその作品を見直したいと思い、今回再び足を運びました。東京時代(幼少~青年期)、千葉時代(青年~壮年期)、奄美時代(壮年~晩年期)の居住地によって一村の生涯を区分し、作品が展示されています。今回は、襖絵などの圧倒的な迫力の大物作品が特別展示として鑑賞することが出来ました。

イメージ 2

作品の魅力は当然のことながら、その生涯はそれ以上に衆目の関心を引くものだと思います。自らの作品への自負により、中央画壇と袂を分かち独立独歩の険しい画道を敢えて選ぶことになります。また、たとえ生計を立てる為であっても、作品には一切の妥協を許さず、買い手の意向よりも自らの探究心を優先させるとともに、

「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の為の奴隷に転落したものと信じます勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人の気持ちと一致することも稀にはある。それでよろしいかと思います。その為に絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう」(南日本新聞社編(1999)『日本のゴーギャン 田中一村伝』小学館文庫)

と道を極める姿勢を述べ、それを実践することにより、18歳で東京美術学校(現 東京芸術大学)を中退後以降、明日の食べるものにも困る生涯を送ることになります。この潔さというか、生半な心得とは対極にある究道的精神をなんと評価すればいいのか小生は持ち合わせていないものの、あえて陳腐な言い方が許されるならば、超人という他はありません。

イメージ 3

一村のこの究道性と作品の精緻さは、小生に、ある巨人を連想させました。それは、南方熊楠です。博物学という概念すらない時代に、自らの探究心に従い、生活の為でも、名誉のためでもなく、その道を究めた生涯に互いの類似性を見るのは、小生だけではないと思います。

蛇足ですが、幼少期からの号である「米邨」を「柳一村」に改め、そこから「田中一村」の号となったのは、陸游の有名な七言詩である『遊山西村』に起因すると言われています。

莫笑農家臘酒渾
豊年留客足鶏豚
山重水複疑無路
柳暗花明又一村
簫鼓追随春社近
衣冠簡朴古風存
従今若許閑乗月
ツク杖無時夜叩門 「ツク」=手偏に主

「絶望と思われた前途に道が拓ける」意味を持つ第三句と第四句に含まれる一村に人生の希望を念じて自らの号に託したのでしょうか?

イメージ 4

小生のような俗人には絶対に真似が出来ないが故に、一村の真っ直ぐな生き方に惹かれてしまい、それを下敷きに見る(本来は作品そのものを鑑賞しなければなりませんが)作品はまた違ったものに感じます。亜熱帯を描きながら、どこか悲哀を感じる一村の作品を、何年か後にまた見ると違って見えるのかも知れません。