石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『そうか、君はカラマーゾフを読んだのか。』

過日の映画『ドストエフスキーと愛に生きる』の上映会でお世話になった 名古屋大学国語大学 の学長である 亀山郁夫 さんから、自著である『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』『そうか、君はカラマーゾフを読んだのか。』を贈呈頂きました。同様に、来場者に『偏愛記』を20冊、『そうか、君はカラマーゾフを読んだのか。』を3冊、プレゼント頂き、抽選でお持ち帰り頂きました。

イメージ 1

この『そうか、君はカラマーゾフを読んだのか。』は、副題が「仕事も人生も成功するドストエフスキー66のメッセージ」となっているので、自己啓発本の類と勘違いしそうですが、そんな単純な代物ではありません。自己啓発本を否定するつもりはありませんが、本で学べる自己啓発なんていうのは、そもそも矛盾していると常々感じている小生からすれば、なかなか面白い本でした。人生なんてものは、不条理や嫉妬、苦悩、虚偽、欲求、感謝、愛、感動などが織り交ざった営みであることを受け入れることであり、その諦観の上に、なお、もがき、苦しみ、怒り、喜び、満足していくことですし、そこに生きる価値があるのだと思います。

イメージ 2

この著作では、
「太陽が見えなくても太陽が存在することは知っている。太陽の存在を知っていることは、それだけでもう全生命だ」
というドミートリーのセリフが引用され、雲に覆われた空の向こうにある太陽の存在にいかなる絶望の淵であっても、希望が存在することを見出すことの意味を問うています。

少し意味合いは異なりますが、芭蕉の句(『奥の細道』)に、
荒海や 佐渡によこたふ 天河
があります。
この句を詠んだ際に芭蕉佐渡島を見ていたか、見ていなかったかでこの句の解釈は大きく異なりますが、荒波のしぶきによって出雲崎からは佐渡島が見えなかったという説に立つならば、目標とするものが雲や波しぶきによってさえぎられているという状況は同じであり、双方ともその障害の向こう側にあるものを想像し、感じることに意味を見出しています。

ともあれ、この著作を読めば、『カラマーゾフの兄弟』を手に取りたくなることは間違いありません。菰野町図書館にも寄贈頂きましたので、一度、ご高覧下さい。

イメージ 3