石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

フランスの厚み

昨年11月13日(金)にパリで引き起こされたテロ襲撃事件は、フランスだけでなく、日本社会をも震撼させた。当たり前のことだが、外食や買い物など日常生活の延長線上において命を落とした人間になんら落ち度はないし、テロそのものは非難されるべき対象であることは間違いない。

スラヴォイ・ジジェクは「キューポラの騒乱」(『現代思想2016.1月臨時増刊号「総特集 パリ襲撃事件」』)の中で、シリアやイラクなどの紛争地域における暴力が永続的に存在する生活とフランスや米国などの平穏な日常生活に立ち現れる瞬時の暴力を対照的に取り上げている。つまり、暴力の日常性/非日常性を問題にしている。

日常生活を瞬時に断絶したパリにおけるテロの後、ある種の排他的な大規模デモがなされた。一方で、紛争地域でその数倍の人々が死んでいるにも関わらず、「国際的な連帯の叫び」があげられていないことに、目に見えない形で存在する地球を内側と外側に二分する境界線が存在していることを示唆している。その上で「外に広がる残忍な暴力を十分に意識することがわれわれの義務である」と言い切っている。


パルチザンのようなテロは確かに脅威であり、憎悪の対象である。ただ、そこから単純に反イスラムが導き出され、偏狭的なまでの魔女狩りが行われるのは、社会の健全性を低下させ、それ自体が我々の価値観を放棄することになっていることの矛盾に気付かなければならない。

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エマニュエル・トッドも、最新号である『文藝春秋(2016年3月号)』で「世界の敵はイスラム恐怖症だ」という論稿の中で、フランスで起こった二つのテロ事件で露わになった社会的非寛容と「無自覚な差別主義」を指摘し、フランス社会の崩壊を危惧している。

ジジェクとトッドというフランスを代表する批評家が、テロ後のフランスが踏み止まるべき立ち位置を冷静かつ大胆に意見を開陳していることの自体にフランスの自律心を感じ入った。加えて、これらの論評を即時的に日本語で読むことが出来ることに大いなる感謝をしたい。