石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『私事(わたくしごと) 死んだつもりで生きている』

歌舞伎の女形と言えば、五代目坂東玉三郎の名をあげる人が多いし、無論、浅学である小生もそれに異論がある訳ではない。ましてや、梨園の出自でなく、病苦を克服したことなどを鑑みれば、当世随一の地位は揺るぎないものであろう。

ただ、人間国宝となったからではないが、美しさや終生女形の道を求め続けた姿勢そのものというか、凡庸な表現になるが、その存在感という点からは、四代目中村雀右衛門も忘れてはならない女形である。その雀右衛門自身が、半生を語った『私事(わたくしごと) 死んだつもりで生きている』((2005)岩波書店)を読んだ。

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私事は、ふりがなが無ければ、「しじ」と読んでしまうところだが、「わたくしごと」とふりがながあるということは、秘め事の要素を内包している印象を受けた。副題となっている「死んだつもりで生きている」は、雀右衛門自身も一言では言い表すことが出来ないと述べているが、ニュアンスとしては、「危機に見舞われたとき、どんなに足掻いても、いい方向に車が廻っていくとは限らないものです。それより、わたしは、時を待ちます。巡ってきた『運』の方向を無理やりに変えると、また別の時に、悪しき方向に行くのではないかと思っています。いえ、そんなことを考えるほどのこともなく、ただ与えられた環境のなかで、懸命に生きていくだけなのでしょう。そうしていますと、また車は別の方向に動きだしていくのです。悪い方向ばかりに進みつづけることはありません。人の運命の流れは、いいにしろ悪いにせよ変わるものです」(PP164~165)といったような「努力を背景に持った諦観」を意味するのだろう。

雀右衛門の妻である晃子は、七代目松本幸四郎の娘である。昭和20年5月の空襲で歌舞伎座も灰燼に帰す中、戦後間もない頃の歌舞伎は、GHQの占領下で厳しい統制を受け、義理人情の「勧進帳」は上演禁止で、仇討ちが主題の「忠臣蔵」などはもっての他だった。そんな危機的な状況であっても、七代目幸四郎や九代目市川海老蔵(七代目幸四郎の実子)などが地方公演などをして歌舞伎を次世代に繋ごうとした。

その七代目幸四郎(来年、十代目幸四郎を襲名する市川染五郎松たか子の曽祖父)は、三重県員弁郡東員町の出身であり、それに因んで、東員町は子ども歌舞伎に取り組んでいる。歌舞伎というと出自つまり血縁関係が重要と考えられているが、戦後の歌舞伎復興の立役者である七代目幸四郎は、そうではないし、先の五代目玉三郎も、最近で言えば六代目片岡愛之助も養子縁組で、梨園の世界に入っている。この血縁による歌舞伎界の継承については、「歌舞伎界というのは、かつては踊りや唄が好きで上手な人が、高麗屋さんなら高麗屋さんに弟子や養子に入るという形で継いでいく形だったのです。血で継承していくのは、むしろ最近のことなのです」(PP70)と雀右衛門が述べているのは、興味深かった。というのも、歌舞伎の「仁(ニン)」と血統を関連させる論稿に接したことがあったからである。逆に言うと、幼少から梨園の家に入ることが「仁」を纏うことなのかも知れない。

残念ながら雀右衛門は鬼籍に入ったが、この著作は、生半では得られない芸を究める姿勢を感じさせる高著であった。こういう姿勢を知らずして物知り顔で物事を語ることへの羞恥を促す戒めでもあった。

江戸時代に歌舞伎の女形を極めたと言われる役者に、芳沢あやめ瀬川菊之丞がいる。初期である芳沢あやめは、日常生活においても女性になりきることをその真髄とし、瀬川菊之丞は、舞台の上で芸としての女性を演じることをその真髄とした(PP42)。

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その芳沢あやめを顕彰した塚が菰野町内にある。当時の記録がわずかしかなく、芳沢あやめが実際に菰野町に住んでいたのか、訪れたのかは定かではないが、奇縁には違いない。