高岡市と菰野町の因縁
菰野中学校男子ハンドボールの応援のために高岡市内に投宿しました。ここは、藤本弘さんと安孫子素雄さん(つまり、藤子不二雄)が、小学生時代に出会った場所であり、漫画家になるために上京する際に出発した場所でもあります。ということで、町の至るところに藤子不二雄作品がありますが、その最たるものが路面電車です。
今回は、この時期に4年続けて氷見市や高岡市に足を運んでいるものの、日程の都合上なかなか実現出来ず、かねてから赴きたいと望んでいた 国指定史跡である前田利長(前田利家の長男)の墓所 に参内することが出来ました。現在の10,000平方メートルでも立派な墓所ですが、もともとは33,000平方メートルもあったと言われ、周囲に堀が廻らされているなどその規模は戦国武将のものでは国内最大級と言われています。
この墓所は加賀前田家3代目(藩主としては2代目)の前田利常による造営です。利常といえば、石川県小松市にある松尾芭蕉が『奥の細道』で「石山の石より白し秋の風」の句を得た場所である那谷寺を再興したことが知られています。
前田利長と聞いて菰野町が連想出来る方は相当な歴史通だと思います。実は、前田利長と菰野土方藩の藩祖雄氏(かつうじ)の父雄久(かつひさ)は、従兄弟同士にあたります。といいますのも、前田利家の妻であるまつ(芳春院)の姉である長松院は、土方信治(のぶはる、雄久の父親)の妻であったからです。
1599年(慶長4年)9月に大阪城の豊臣秀頼のもとに向かう徳川家康の命を狙っている者がいるとう情報が流され、その首謀者とされる浅井長政、前田利長、土方雄久、大野治長の4名に嫌疑がかけられ、それぞれ甲斐や常陸に追放された仲でもあります。