石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

「さすが。勇気の。光秀も。」

先日、小生は足を運んでいませんが、当町に程近い東員町で子ども歌舞伎が行われました。演目は、「絵本太功記 第十段 尼ヶ崎閑居の場」「傾城阿波鳴門 どんどろ大師の場」 でした。

「絵本太功記」は、本能寺の変から山﨑の合戦(天王山の合戦)までの13日間を題材にした明智光秀の側の物語で、この「絵本太功記 第十段 尼ヶ崎閑居の場」は、最重要の場面であることから、浄瑠璃でも歌舞伎でもこの段が最も多く公演されます。

主君である織田信長を裏切ったことを母に咎められた上に誤って殺してしまい、息子は合戦から敗走し、眼前で息絶える直前に光秀に逆賊であると告げ絶命し、加えて、その様を見ている光秀の妻や息子の嫁が嘆き哀しみます(もちろん史実とは異なるフィクションです)。

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歌舞伎ではなく浄瑠璃の話(歌舞伎の大本は浄瑠璃なので一緒と言えば一緒ですが。ちなみに、「絵本太功記 第十段 尼ヶ崎閑居の場」は、浄瑠璃の初演が1799年で、歌舞伎の初演が1800年)で恐縮ですが、杉山其日庵浄瑠璃素人講釈』 によれば、母と息子の死、妻と嫁の嘆き、主君を裏切ったという烙印などにより、勇猛果敢な光秀が精神的に追い込まれる様を表現することがこの段の肝であり、「流石勇気の光秀も、親の慈悲心子故の闇、輪廻の絆にしめ付けられコタへかねてハラハラハラ」と悔悟するのがクライマックスであるとのことです。

そのセリフの太夫の言い回しは
「『さすが。勇気の。光秀も。親の慈悲心』とネバッたら息を詰めて親を思い、『子故の闇』と語ったら息を詰めて子を思い、『輪廻のきづなに、しめ付けられ』と大『ヘタリ』に息で『ヘタラ』して情合を聴衆に納得させて、後に『こたへかねて』と語らねば、『ハラハラハラ』と大落しには語られぬのである。皆大落しではなく小落しである。否、乱脈落しである。光秀の泣く落しブシになっているのは一つも聞かぬのである」(『浄瑠璃素人講釈(下)』 PP149)
と指摘し、せっかくの名場面をほとんどの名太夫が大落しに出来ていないと嘆いています。これまた杉山其日庵の面目躍如と言ったところでしょうか。

「傾城阿波鳴門 どんどろ大師の場」についても親子の情を中心とした演目で、訳あって離れ離れになった親子が、偶然にも再会を果たすが、親の事情によって、自ら親として名乗ることが出来ないというストーリーです。『浄瑠璃素人講釈(上)』にも「傾城阿波鳴門 八ツ目切 巡礼歌の段」として紹介されていますが、ここでは、太夫の語りの仕方を問題にするのではなく、当世の名太夫であってもなかなかうまく演ずることが出来ないことが述べられています。

そのうまく出来ない語りを其日庵と五代目鶴沢仲助が、竹本摂津大掾に稽古をつけてもらうことになりました。当時、其日庵児玉源太郎が台湾総督を辞した際の後任の人選と後藤新平を初代南満州鉄道の総裁にするために奔走しており、手元に「軍資金」として千円を持っていましたが、連日の稽古の終盤にその大金が盗まれる事件が起きました。浄瑠璃の稽古もうまくいかず辟易している際に、盗難事件が起き、其日庵は弱り目に祟り目の状況でした。しかし、その盗難事件すら「大変高価な『鳴門』のお稽古でございましたナア」と摂津大掾に終生の笑い話にされたことをエピソードとして『浄瑠璃素人講釈』に記している辺りは、其日庵の笑いのセンスの高さを示していると思います。