石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『将軍様、あなたのために映画を撮ります』


副題は、The Lovers and the Despot つまり、恋人たちと専制君主(話は全く違うが、約20年ぶりに despot という単語を見てやや興奮した(笑))

1978年(昭和53年)1月に、当時の韓国トップスターである女優の崔銀姫チェ・ウニ)が、渡航先である香港で北朝鮮に拉致された。その崔の元夫であり映画監督の申相玉シン・サンオク)が、香港で崔の消息を追っている最中の同年7月に北朝鮮に拉致された。この二つの事件については、そもそもが拉致ではなく亡命説が存在するなど紆余曲折があるが、この映画では、拉致として取り扱っている。

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                           【出典:映画のパンフレット表紙】

この作品は、崔のインタビューを中心にしてストーリー展開され、当時の関係者への取材や資料などで構成されたドキュメンタリーである。特に、貴重な資料としては、崔と申が盗聴に成功した、当時、世界で誰も聞いたことがなかった金正日の肉声が入った音声資料だった。

建国以来、圧倒的な専制君主のイメージが付きまとう金日成であっても、1960年代後半までは、延安派やソ連派、甲山派などの敵対派閥が存在し、順次他勢力の粛清を進めていたものの、自身の満州派(朝鮮労働党)が権力を完全に掌握しておらず、その政権基盤が磐石だという訳ではなかった(そもそも金日成が偽者という説も有力である)。最終的には、甲山派を一掃して権力を奪取するものの、当然のことながら、その残党が存在しており、特に文化及び芸術分野でのその人脈の深さに、息子である金正日は憂慮していた。そこで、甲山派の残党の心を掴むために、過去の行動を不問にし、その後、芸術分野への配慮を欠かさず政権維持に努め、併せて、プロパガンダ金日成英雄伝説のために抗日革命映画を製作し続けた。権力者が推進する抗日革命映画は、民衆に飽きられ、期待された効果を上げられなくなってきたものの、映画製作者は、権力者の意図以外の映画を製作することによって被るリスクを考えると、斬新な作品を作ることは出来ず、自ずとマンネリ化が生じた。この抗日革命映画礼賛主義とも言うべきマンネリ化を打破するために、韓国トップ女優である崔とヒットメーカー監督の申が拉致された(門間貴志「将軍様、あなたのために映画を撮ります」パンフレットより)。

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                          【出典:映画公式ホームページ】

拉致された後の崔は、絶望の中に自らが「人形になる」ことを決意し、言われるがままの演技を続けた。一方、その後を追うように拉致された申は、二度の脱獄を試みるが失敗に終わり、政治犯が放り込まれる第六収容所での苛烈な環境に身を置くこととなる。およそ4年間の歳月を経て、見せかけの忠臣を誓った申はようやく獄外に出されることなり、そこで、崔との再会を果たし、再婚する。以後、二人は、第14回モスクワ国際映画祭主演女優賞作の『塩』(映画内のインタビューで答えていたが、崔が最も気に入っている映画)や特撮映画『プルサガリ 伝説の大怪獣』(日本から特撮監督の中野昭慶らが招へいされた)など、申曰く「制作費の心配をしなくても良かった」というように、潤沢な資金を得ながら、2年3ヶ月の間に17作品を撮った。

その間、金正日の大いなる信頼を得て、国際映画祭やロケなどで海外に赴くことも多くなった。当然のことながら、海外では屈強な男たちの厳重な監視下での行動であった。崔は亡命のチャンスを伺い、実際に何度も申に対して「今が亡命のチャンスだ!」と促したが、失敗した後の収容所生活を知っている申は、確実な場面でしか決行しようとしなかった。しかし、オーストリアのウィーンでいよいよ絶好のチャンスが訪れ、拉致されて以来8年後の1986年(昭和61年)に、複数の追っ手の目を盗み、米国大使館に逃げ込み亡命に成功した。

この映画を撮ったロス・アダムとロバート・カンナンは、丹念に資料を収集し、日本の映画評論家である西田哲雄や元米国諜報員、元香港警察関係者などにインタビューをしている。制作は英国のBBCであるが、ここにも先のブログでも記したように、ドキュメンタリー分野における映像メディアの優勢を感じた。

あと、映画で採用された申本人の肉声は日本語であった。途中まであまりにも自然に受け止めていたが、韓国人のインタビューが日本語で残っていることに、韓国と北朝鮮の歴史に加えて、日本と韓国の歴史を垣間見ることが出来た。と同時に、金正恩がこの映画を見たら、何を感じるのか、聞いてみたくなるのは、小生だけだろうか?