石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

孤高のハンナ・アーレント

新聞各紙も文化面やコラムなどでこの映画に関する記事を掲載していましたし、月刊誌の『文藝春秋』の巻頭コラムでも立花隆さんが取り上げていた(映画そのものの批評としてはややピント外れの内容ではありましたが(笑))からという訳ではありませんが、数ヶ月前に、話題の 映画『ハンナ・アーレント』を見に行きました。大学の教養(つまり1~2年生)時代に、『人間の条件』を読もうとして敗北した経験を持つ小生としては、40歳を過ぎて、アーレントにチャレンジする機会を得られたことは天啓としか言いようがありません。

なかなか時間が取れず、タイトなスケジュールの中で足を運んだため、睡魔に勝てるか自信がありませんでしたが、それは杞憂に終わりました。哲学者であるアーレントの半生を映像化するという野心は生半な心持ちでは成立しないと考えていましたが、フィルムに溢れる緊張感、社会的使命、孤高といったレベルにおいて、その野心は見事に達成されていました。

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映画の最大のポイントは、ナチスユダヤ人虐殺に関与したアイヒマンの裁判傍聴をしたアーレントが、その取材記事を書くにあたり、あろうことか、ユダヤ人虐殺にユダヤ人評議会(=ユダヤ人の自治組織)が深く関与、協力していたという事実を指摘したことです。当然、ユダヤ人関係者は、同じドイツ系ユダヤ人であるアーレントに対して誹謗中傷を浴びせるなど厳しい立場を取ります。ユダヤ人である友人や知人も彼女を非難し、彼女のもとを去っていく人が続出しました。

アーレントも強制収用所に入れられたものの、命からがら抜け出し、フランスその後米国に亡命した経験を持っていることからも明らかなように、ナチスの行ったユダヤ人虐殺を許すつもりは全くありませんでした。しかしながら、彼女にとって、事実を隠蔽することとアイヒマンを許すことは全く次元の異なったことでした。ここに哲学者としての社会的使命を見て取ることができ、たとえ孤高の道であっても真実を追究するという態度に感銘を受けます。

映画のクライマックスである大学での講義風景のシーンで、「世界最大の悪は平凡な人間が行う悪」であり、「そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もな」く、「人間であることを拒絶した者」と規定し、これらのことを「『悪の凡庸さ』と名づけました」。そして、人間であることを拒絶した人は、「人間の大切な質」である「思考する能力」つまり「善悪を区別する能力」や「美醜を見分けえる力」を放棄したと指摘し、人間である限り「危機的状況にあっても、考え抜くこと」を放棄してはいけないと主張します。また、思考を「自分自身との静かな対話」と定義し、考えることを反省的視点からも捉えています。

小生が現在所属している組織も指示命令系統が明確になっているため一歩間違えば、思考停止状態に陥る危険性を孕んでいます。公務員は公平、中立を旨とするため、定められたルールに則り、業務を遂行しなければなりません。しかし、それは考えることを完全に止めてしまうことを意味するのではありません。逆に、個人が自分自身と静かに対話することに加えて、組織として正しい執行をするために、組織として反省的に思考することが強く求められるのだと思います。ユダヤ人虐殺のような人間の尊厳を危機に曝すような状況は想定しにくいですが、真偽、善悪、美醜を見分けることを常に意識して、自らの責務を果たさなければならないと言えるでしょう。

ハンナ・アーレントの使命感、孤独に耐える強い信念には及ばないものの、権力者はその権限の行使や政治的決断に際し、多面的、総合的に粘り強く考え抜く不断の努力が求められのは自明であり、何よりも自らの信念を貫き通す基軸を持つことが必須であると思います。