石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

服従という美徳に拘束された男

「自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望みはしなかった。自分の罪は服従のためであるが、服従とは美徳として讃えられている。自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ。しかし自分は支配層には属していなかった。自分は犠牲者なのだ。そして指導者たちのみが罰に価するのだ」(pp191)

この言葉は、「ユダヤ人虐殺」(本来の起訴理由は、ユダヤ民族に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪に関わる15項目に亘っていますが、ここではそれらを包括して便宜上「ユダヤ人虐殺」と表現しました)の廉でイェルサレムでの裁判(=通称、アイヒマン裁判)にかけられ、8ヶ月に及ぶ第一審判決の最後に、アードルフ・アイヒマンが述べたものです。簡略化を許されるならば、何百万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込みながらも「自らは組織の命令に従っただけである」と述べた言葉です。

この言葉を弁明、つまり自らの犯した罪に恐れおののき、何とかしてその場を逃れたいという願いから発せられる言葉ととらえる人がいるかも知れませんが、アイヒマンに限ってはそれは弁明ではなく、あくまでも自明、つまり事実を淡々と述べた言葉だと考えられます。と言いますか、イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントはそう感じたのではないかと小生は思っています。

このアイヒマン裁判を取材した ハンナ・アーレントは『イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』を出版しました。ご承知のとおり、この著作は、「ザ・ニューヨーカー」誌に掲載当時から、論争や議論とは異なる次元(アーレントを批判している人にとっては論争や議論と思っていたかも知れませんが)の毀誉褒貶や誹謗中傷といった類いにまみれた連載が纏められたものです。以前のブログで映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞したこと について触れましたが、それ以降、その映画の題材となった本著を読み直し、アイヒマン裁判に関わって小生を刺激したいくつかの興味深い点について述べてみたいと思います。

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その1つが、冒頭に引用した陳述であり、その発言をしたアイヒマンとはどういった人物であったのか、というものでした。先に、アイヒマンの発言を弁明ではなく、自明であると指摘しましたが(これがもしアイヒマンではなく、大衆迎合や保身しか考えず、そのための自己欺瞞と浅薄な思慮しか供えていない現代日本にありふれた政治家などの発言であるならば、それは単なる弁明以外の何物でもないと断言できるでしょう)、そのことはアーレントによるアイヒマン評として重要な見方であると言えます。しかし、小生がより重要かつ問題であると感ずるのは、ナツィの中でそれなりの立場を占めていた(例えば、ヨーロッパユダヤ人の絶滅を確認したヴァンゼー会議に出席した14人のメンバーであった)にも関わらず、自分の行った所業を「自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ」と臆面もなくのたまうその了見です。組織として、自らよりも上位にある指導者を非難する(そうすることで弁明を行う)ことは百歩譲っても構いませんが、少なくとも組織を動かし、人身財産の生殺与奪権を掌握した者であるなら、このような言動は慎むべきであると思います。

それは、弁明か自明かという地平ではなく、権力者としての自覚の問題です。

アーレントは組織の歯車として忠実に働き、それをなんの疑いもなく自明としたアイヒマンの所業を 悪の陳腐さ と定義しました。この恐ろしさは、アイヒマンが、ユダヤ人という民族をなにがなんでも絶滅させようとする悪魔的な信念や狂信を有したのではなく、自らに与えられた仕事をいささかの疑念も挟まず言われた通り実行したところにあります。このようにアーレントは、「悪の陳腐さ」を、強烈な悪意や邪悪な信念を抱いた特別な人間に生ずる悪ではなく、組織に忠実である人間誰しもに生ずる可能性のある悪であると定義しました。

イェルサレムアイヒマン』の本文中に、この「悪の陳腐さ」という表現は、管見の限りでは、2か所出てきます(2か所しか出てこないとも言えますが(pp195、pp221))。やや長い引用になりますが、その定義ともいえる部分を引用してみます。

「私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目を背けることのできなかった或る不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。しかも<悪人になって見せよう>というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヵ月にわたって警察で訊問に当るドイツ系ユダヤ人と向き合って坐り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかったのは自分のせいではないということをくりかえし説明することができたのである」(pp221)

アーレントはここで「想像力の欠如」という言葉を用いて、アイヒマンが何百万人というユダヤ人に行った行為の先にどのような結末が待っているのかを、組織の歯車ではなく、アイヒマン自らが反省的に思考し、併せて、その行為を、真偽、善悪、美醜の基準に照会することが欠如していたと断罪しています。この指摘は的を射ていますし、重要なものですが、小生はこれに加えて、権力者としての自覚、為政者としての立ち居振る舞いもしくは責務が欠如していたと考えます。あくまでも小生の個人的見解ですが、生殺与奪権を有していながら、それに無自覚な者が組織の中枢に入り込み、執行をしていたナツィという組織は組織の体をなしていないと言えますし、膨張し続けた組織の末路を典型的に表しているとも言えるでしょう。

以上のことから、小生は、権力者や組織のあり方、権力者と組織の関係を改めて考えさせられると同時に、常にそれらを反省的思考によってとらえることの重要性を再認識しました。加えて、権力者に必要不可欠な能力は、熱狂に酔いしれることなく、平衡感覚と持続性をもって思考し続けることであるとも痛感しました。


(以下は参考メモ)
アイヒマン裁判の判決など】
アイヒマンは、以下の4点の罪において、第一審で死刑を宣告され、半年後の第二審でも結果は変わらず、1962年5月31日に死刑となった。
・「数百万のユダヤ人の殺害をなさしめたこと」
・「数百万のユダヤ人を肉体的に死に到らしめるような条件下」に置いたこと
・彼らに「重大な肉体的および精神的傷害を与えたこと」
・テレージエンシュタットにおいて「ユダヤ人たちの出産を禁止し妊娠を中絶させるように指令したこと」
 ただし、1941年8月総統命令(ハイドリヒに出されたユダヤ人絶滅の具体的方策を検討する命令)を知らされる以前の期間に関するすべての起訴項目については無罪となった。

アイヒマンの略歴】
1906年3月19日、ドイツ帝国ラインラント(現在ではノルトライン・ヴェストファーレン州)のゾーリンゲンで生まれる。
1913年、オーストリアリンツに引っ越す。
高校、工業専門学校をいずれも中退する。
その後、父親の関係の鉱山工場で働くも長続きしない。
1925年から1927年(19歳~21歳)、電気工業関係会社の販売員として働く。
1928年から5年半、石油会社に勤務し、その間にオーストリアナチスに入党する。
1933年、オーストリアナチスが禁止され、失業中ということもあり、ドイツに移る。
1934年、SD(=SS内の比較的新しい機関)に配属される。
1938年3月、ウィーンに派遣され、ユダヤ人移送に関与する。
1939年4月、プラハに派遣される。
1939年9月、ベルリンにてゲシュタポユダヤ人課課長に就任する。
1944年3月、ハンガリーに派遣される。
1950年7月、ブエノスアイレスに渡る。
1960年5月、ブエノスアイレスモサドに拘束され、イェルサレムに移送される。