石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

現在の欠落

襲撃現場のリベン地区のホレショヴィツェ通りにある曲がり角で短機関銃を持ったガブチークとメルセデスの車上で無防備な姿のハイドリヒが向き合う場面を作者であるローラン・ビネは、ハイドリヒを二人称に置き換え、以下のように記述している。

「あなたは強い、権力がある、自分に満足している。すでに何人も殺しているし、これからもたくさん殺すし、まだまだ殺す。何もかも思いどおり。邪魔立てするものは何もない。十年もしないうちに<第三帝国でもっとも危険な男>と言われるまでになった。あなたを侮る者は誰もいない。もう誰も<山羊>とは呼ばない、<金髪の野獣>と呼ぶ。動物種の階梯のカテゴリーを、あなたは決定的に変えてしまった。今では誰もがあなたを恐れている。眼鏡をかけたチビのハムスターみたいな、あなたの上司でさえ。彼だって、ずいぶん危険な人物なのに。あなたはコンバーティブルの愛車メルセデスの助手席にどっかりと腰をおろし、正面から風に打たれている。あなたは仕事場に向かっていて、その仕事場は城のなかにある。あなたはある国に生きていて、その国の住民はみなあたなの臣下であり、あなたはその生殺与奪権を握っている。あなたがその気になれば、最後のひとりまで皆殺しにできる。そもそも、事態はそういう方向に動いている。でも、あなたはそれを自分の目で見ることはできない。ほかの事案があなたを待っているから。応じなければならない新たな挑戦がある。もうじきあなたは自分の王国から立ち去る。あなたはこの国に秩序を回復するために派遣され、その任務をみごとに成し遂げた。全国民を屈服させ、鉄拳で保護領を制圧し、政をし、統治し、支配した。後継者には、あなたが遺したものを定着させるという重い任務が託される。たとえば、あなたが打ち砕いたレジスタンス運動をけっして復活させないこと、チェコの生産機構をドイツの戦争努力に奉仕させつづけること、あなたが着手し、その実施方法を定めた住民のゲルマン化の手順を今後も踏んでいくこと。自分の過去と未来に思いをはせ、あなたはとてつもない自己満足に浸っている。膝の上に乗せた革の書類鞄をしっかりと握りしめ、故郷のハレを思い、海軍での経験を思い、あなたを待っているフランスと、そこで死ぬユダヤ人のことを思い、あなた自身がこのうえなく頑丈な基礎を築き、その根をこのうえなく深いところにまで埋めた、不滅のドイツ帝国のことを思う。しかし、あなたは現在のことを忘れている。あなたの警察官としての本能は、メルセデスが走っているあいだに頭をよぎる夢想の数々に麻痺してしまったのか?あなたには春の暖かい日だというのにレインコートを腕に抱えている男が目に入らない。その男が車の行く手をふさぐように道路に飛び出してきたとき、初めてあなたは現実に引き戻される」(PP298-299)


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ほぼ1ページ半の分量の中に、ハイドリヒの過去を振り返り、来るべき未来の栄華に思いを馳せ、統治者としての権力を最大限に振るうさまが的確に表現されているのと同時に、人生の絶頂が一瞬のうちに死に反転する瞬間が見事に切り取られている。恐らく、類人猿作戦を理解する上で最も重要かつ時間が凝縮された場面がここであり、『HHhH』を原作とした映画を制作するなら、最初のシーンはここから始めると思うぐらい決定的な場面である。

『HHhH』は史実に基づき、収集された資料を忠実に誠意をもって著述されているので、限りなくノンフィクションに近いジャンルに属すると考えられるが、単に事実が羅列された単調な物語ではなく、3つの時間軸、つまり、ガブチークとクビシュに関わる時間軸、ハイドリヒに関わる時間軸、そして作者自身に関わる現在の時間軸(実際には、ユダヤ人虐殺に関わる時間軸も挿入されているが、それは小説の主題ではないので、ここではハイドリヒと作者自身の中に含めた)を行ったり来たりしながら、筋書きが展開する小説である(この時間軸の錯綜に読者はしばしば悩まされるのであるが(笑))。これらの時間軸を巧みに用いて、作者が物語を進め、書き手の思いを現在の時間軸の中に埋め込んでいるものの、歴史への尊崇の念なのか、感情をコントロールするためなのかはわからないが、登場人物の思考や行動を極力形容しないように記述していた。しかしながら、この場面のハイドリヒだけは、例外的に作者の視点で再構成され、想像を介入させて表現されている。小生がこの部分を長々と引用したのは、この例外的措置の秀逸さを指摘することに加え、ローラン・ビネが本作のハイライトをここに凝縮させていることを述べたかったからである。

別の言い方をするならば、語り継がれる歴史というのは、時間の長さではなく、一瞬にどれだけのものが凝縮されているかが問題になると示したかったのかも知れない。つまり、このガブチークとクビシュがハイドリヒと向かい合い、そこに3人の人生が凝縮されなければ、歴史として成立しないと作者は伝えたかったのかも知れないということである。

以上は表現の問題として感じたことであるが、一方で、為政者としてのハイドリヒのあり方について考えてみたい。この1ページ半に及ぶ文章で、ハイドリヒの過去と未来が、ある意味過不足なく象徴的に述べられており、そこには、ハイドリヒの自信過剰さに起因する危機意識の欠如が如実に表れている。確かに、「死刑執行人」、「虐殺者」、「金髪の野獣」、「鉄の心を持つ男」などと言われ、情報機関と警察機構を掌握した人物は「邪魔者は消し去ればいい」という信念のもと悪魔のような所業を積み重ねた。その実績が統治や権力掌握に対する自信に比例し、ハイドリヒの行動に危機管理の欠如をもたらした。つまり、悪魔のような所業の実績に比例したものは、ハイドリヒの自信と同様に、被統治者の反作用(反発や憎悪)の増大にもつながった。その反作用をハイドリヒは失念したのである。その失念が、ローラン・ビネが「あなたは現在のことを忘れている」と指摘したかったことなのではないだろうか?

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このことは皮肉にも、ヒトラーが、1942年6月4日の夕食時のテーブルトークにて端的に指摘している。

「今後、危険を身にさらしている幹部には安全保障規制への絶対服従を命ずる。今の世の中は強盗だけではない、暗殺者もうろついているのだ。それなのにプラハの街なかを武装もしないオープンカーに乗ったり護衛もなしで歩いたりといった一見英雄ふうのふるまいは実に愚かしい。これっぽちも国家の益になどならない。ハイドリヒほどのかけがえのない人間が己が身を不必要な危険にさらすとは!大馬鹿者!と怒鳴りつけてやりたいくらいだ。彼のような重要人物ともなれば、自分が常に、チャンスを虎視眈々とうかがっている殺人者に狙われているのだということを意識していなければならない。警察にはさまざまな情報は入るが、完全な安全保障を期待するのは無理だ。例えば、車が立ち木にぶつかった場合、その事故が犯罪がらみだったかどうかはすぐには分からない。もし運転手が狙撃され車がぶつかっても、同乗者には何が起こったのかは分からないのだ。というのも、時速60マイルで走行中は、発射音が聞こえるよりずっと以前に弾丸は標的に届いているからだ。ドイツ帝国の被征服地が不安定な状態にあり、外国人犯罪者どもが一掃されるまでは、政府の要職にある者は自分の身の安全には細心の注意を払うこと。これは、ほかでもない国家のためなのだ。」(アドルフ・ヒトラー(1994)吉田八岑 訳『ヒトラーのテーブルトーク 下』三交社、PP189)


ハイドリヒは自らの地位や立場、それに伴う最も重要で極めて平凡な責務を忘れていたのであり、このことは組織にとっては致命傷であった。そのことを統治者とのしてのヒトラーは、的確に言い当てたのだと思う。ヒトラーは統治者として自覚的であり、残念ながら、ハイドリヒは統治者としては無自覚であったということになり、このようなある種の危機管理は、国を治めるために何かを実現していく手際のよさとは違った意味での、統治者に必要不可欠な自覚である。ハイドリヒの「現在の欠落」が、ハイドリヒ自身やヒトラーナチスドイツには厄災を、ガブチークやクビシュ、チェコスロバキアや引いては連合軍には歓喜を与える引き金となったことは、2014年の我々から見れば歴史的事実であろう。