石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

類人猿作戦

カタカナ表記では エンスラポイド作戦(=Operation Anthropoid)とされる類人猿作戦 は、第二次世界大戦期の「ユダヤ人問題の最終解決」の首謀者である ナチスのラインハルト・ハイドリヒを暗殺する作戦のコードネーム である。ご存知の通り、このハイドリヒは、ナチスドイツ時代の国家保安本部の事実上の初代長官であることが示しているように、掌握した情報機関と警察組織をフルに活用しながら、国民を監視し、ナチスドイツに対して反逆を企てる者(レジスタンス)やユダヤ人を虐殺したと言われている。

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              【爆破されたハイドリヒのメルセデス(出典:ドイツ連邦公文書館)】

1941年12月28日に英国から2人のチェコスロバキアの軍人が、チェコスロバキアの亡命政府のエドヴァルト・ベネシュ大統領の命を受けて、爆撃機ハリファックスに乗り込み、ハイドリヒのいるプラハを目指した。その2人の名は、ヨゼフ・ガブチーク(スロバキア人)ヤン・クビシュ(チェコ人) である。彼らは、パラシュートで降下したのち、レジスタンスの助力を得ながら予定外の困難を乗り越え、1942年1月8日にプラハの地に入り、ターゲットの動向を探り、およそ10人の他のパラシュート部隊員たちとともに、暗殺のチャンスを伺っていた。その間、(後のブログに詳細を記載するが)あの悪名高いヴァンゼー会議が1月20日に開催され、いよいよユダヤ人には時間がなくなりつつあり、加えて、ヨーロッパ諸国は1944年まで続くナチスドイツの暴走を呆然と見ているしかない状況になりつつあった。


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本書 『HHhH プラハ1942年』(ローラン・ビネ(2013)高橋啓 訳、東京創元社 によれば、類人猿作戦が決行されたのは、1942年5月27日の午前10時30分となっている。ハイドリヒを乗せたメルセデスの行く手を遮り、ガブチークが英国製の短機関銃であるステンガンの引き金を引き、作戦任務完了となるはずであった。「なるはずであった」ということは、決定的な最後の最後に最大の困難が立ちはだかったということである。弾の出ない短機関銃、つまり単なる金属の塊以外の何ものでもないものを握りしめたガブチークの焦燥はいかばかりであったか?ナチスで最も恐れられたハイドリヒを目の前にして、何も出来ない焦りと恐怖は平和な現代日本に生きる小生には想像することすらある種の不遜にあたるものであったであろう。そのガブチークの異変に気付いた相棒のクビシュは、予定通りであったかは分からないが、一刻を争う状況の中で、鞄から取り出した爆弾をメルセデスの前部座席を狙って投げた。ただし、残念なことに狙いとは大きく外れ、後部右側の車輪の横に落ち、そこで爆発した。

標的のハイドリヒは爆弾によるダメージはあったものの即死には至らず、と言うよりも傷ついた身体を奮い立たせ銃を持って応戦した。文字通り命を懸けた激しい銃撃戦の末、最終的には、ガブチークもクビシュも現場から立ち去ることは出来たものの、対象者の暗殺は失敗に終わったと思われた。しかしながら、ハイドリヒはこの際の被弾によって、感染症を誘発し、6月4日に絶命し、結果的にはエンスラポイド作戦はコンプリートされた。

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   【クビシュ(向かって左)とガブチーク(向かって左)(出典:http://someinterestingfacts.net/)】

出発直前のロンドンにおいて、ガブチークとクビシュに面会し、

「我を忘れてただひたすら、この二人の兵士を見つめていた。彼らの任務がどのような結果になるとしても、この任務から生きて帰ってこられる確率は千分の一もないことは歴然としている二人の兵士をじっと見つめいた」(PP199)

ベネシュ大統領の認識は正しいものであったであろう。
その当時の戦況は、

「たしかに1940年の大空襲にイギリスは耐え、一時的とはいえ空中戦に勝利を収めた。赤軍もモスクワまで撤退したものの、侵略者が目的地に達する寸前でこの進軍を食い止めた。イギリスにしろ、ソ連にしろ、なんとか壊滅を回避したのち、現在では、それまでの無敵の快進撃を続けたドイツ帝国に反撃できる状態にまで立ち直っているように見える。しかし、今は1941年の暮れ。ドイツ国防軍は勢力の絶頂にある。その無敗神話を疑わせるに足る大きな敗北はまだ喫していない」(PP197)

とあるように、ノルマンディー上陸作戦の2年半前にこのミッションを請け負うことが、それ自体死を意味することは、誰の目にも明らかであったと考えられる。

巷間では、太平洋戦争末期の日本軍は「カミカゼ」と恐れられたと言われているが、このようなガブチークとクビシュの任務も救国への意志と責任という観点から見れば、「カミカゼ」が日本だけの専売特許であった訳ではないと言えるだろう。このような場面に出会う度に思うことがある。それは、戦地や危険な場所に赴く人の心持ちと同様に、如何に責務とはいえ、自分の部下なり同僚なりを赴かせなければならない人の心中である。両者の気持ちは決して交わらないというか、決して交わってはいけないとも思う。なぜなら、気持ちで乗り越えられるような安穏とした状況ではなく、そこには冷徹さの極致とも言える一片の私情を挟むことの許されない心持ちが、命令する側と命令される側に求められるからである。

本ブログにおいて、ハンナ・アーレントアイヒマン を取り上げながら、ナチスによるユダヤ人虐殺について少し考えてみたが、今回は、『HHhH』を下敷きにしながら、ナチス第二次世界大戦時のヨーロッパなどについての考えを展開してみたいと思う。