石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『非ユダヤ的ユダヤ人』

課題図書として『非ユダヤユダヤ人』(アイザック・ドイッチャー/鈴木一郎訳(1970)岩波新書)が指定された。

本ブログでも 『イェルサレムのアイヒマン』『HHhH プラハ1942年』 などを取り上げてきたこともあり、ユダヤ人を取り巻く諸問題については小生の関心事の一つであることは間違いない。その関心事であることもさることながら、『非ユダヤユダヤ人』というタイトルに知的好奇心が掻き立てられ、興味深く読み進めることが出来た。

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タイトルの『非ユダヤユダヤ人』は「ユダヤ人でないように見えるがユダヤ人である」ということになり、あくまでもユダヤ人として自己規定をしながら、ステレオタイプ的なユダヤ人を乗り越えていくユダヤ人のあり方を示したものである。

それが端的に表現されているのは、
スピノザ自身が独立の思想家としてたち、聖典旧約聖書)の近代的批判をはじめた時に、かれはすぐユダヤ教の中にある根本的矛盾を認めたのである。それは普遍的一神教の神と、その神がユダヤ教の中で自己を示す仕方-すなわち一民族にのみ妥当する神-の間にみられる矛盾、普遍の神とその神の「選民」の間の矛盾であった。この矛盾を自覚したためにスピノザユダヤ人社会から追放され、ユダヤ教会から破門を宣告されたのである(1656年)(PP37)
とあり、普遍的存在である神は、ユダヤ教を信じる人だけではなくすべての人々に対して恩寵を与えるはずであると述べている。

だからと言って、スピノザは、B'z のように
そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは
僕とずっといっしょにいる方が 気持ちよくなれるから (「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」より)
とうような無神論者になることはなかった(笑)

閑話休題
ここでなぜドイッチャーが「選民思想」をテーマにしているのかというと、
一民族のための国家が究極的に妥当性を欠いたものであることを自覚し-あるいはもう一度再認識して-、かつてユダヤ的なるものを超越したユダヤ系の天才たちが残した倫理的政治的遺産にたちかえることをのぞんで止まない。(PP54)
に示されているように、ユダヤ人国家として成立したイスラエル建国が、より民族紛争を拡大させ、悲劇を繰り返すことにつながるという問題意識を持っていたからである。確かに、ドイッチャーが、民族主義ナショナリズムではなく、インターナショナリストの立場であったものの、そもそもイスラエル建国が、反セミ運動に屈服することになり、世界各国での同化政策に反抗して、ユダヤ人としてのアイデンティティを守ってきた民族意識を否定することになることを指摘している。つまりは、国家を持たずとも民族を保持できることを示したユダヤ人を肯定し、それこそが「アウシュビッツ」を経たユダヤ人の生きるべき道であると述べている。さらには、イスラエル建国によって助長されたイスラエルパレスチナとの間の紛争が、すべてのユダヤ人に受け入れられているという訳ではないことを意味しているといえる。

この著作の中で、イスラエル建国時における米国とソ連の共同戦線に英国とアラブ諸国が屈した辺りの話は、国際情勢の面白さを物語るものであり、他にもキブツというユダヤ独特の共同生活のあり方も共産主義との関係において興味を惹かれるものである。宗教や民族と近代国家制度、近代合理哲学との相克を考える上で有意義な著作であり、『文明の衝突』を経験した現代社会に示唆を与えるものであることは間違いない。