石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『おろしや国酔夢譚』

おろしや国酔夢譚』(1968年、文春文庫) は、大黒屋光太夫を含む17名(幾八、三五郎、次郎兵衛、安五郎、作次郎、清七、長次郎、藤助、与惣松、勘太郎、藤蔵、小市、九右衛門、庄蔵、新蔵、磯吉)が、紀伊家の廻米や商売のための木綿、薬種、紙などの多くの荷を積んで、伊勢国白子村(鈴鹿市白子)から江戸に向かおうとしたところ、時化に遭い、アリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着いてから、日本に戻るまでのおよそ10年間の出来事を描いた井上靖の小説です。

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たまたまですが、この本は昨年10月に新装版としてリニューアルされたのですが、そもそもこの本を読もうと思った発端は、過日、鈴鹿商工会議所の地域開発委員会の皆さんが、視察研修に来町された 際に手土産として頂いたお菓子の名称となっていたからです。

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                      【手土産で頂いた「おろしや国酔夢譚」】

大黒屋光太夫のことは、江戸時代にロシアまで流されてしまった人ぐらいの印象しかありませんでしたが、今回改めて『おろしや国酔夢譚』を読んで、あの時代に外国に行った訳ですから当然と言えば当然ですが、幾多の困難を乗り越えて、まさに命を賭して帰還したことを理解することが出来ました。

小生が冒頭に17名のすべての名をわざわざ連ねたのは、小説の中でその一人ひとりがその他大勢で扱われるのではなく、固有名詞を持った人物として描かれ、特に、物語上の脚色の手法ではあるとは思いますが、一人ひとりの死に際が克明に描写されているからです。井上靖が、光太夫の視線でそれぞれの人物との関係を捉えていることは確かですが、一方で、小説に耐えうる資料や記録が残っているということは、光太夫本人が、仲間のそれぞれの死といかに真摯に向き合っていたかを示すものだと思います。

例えば、アムチトカ島で病床にあった年上の三五郎が光太夫に遭難時の過ごし方を指南した後に

「この三五郎の言葉に対して、光太夫は素直に早速そのようにしようと答えたが、この時、光太夫は三五郎の痩せ衰えた体をいたましく見守っていた。思い詰めた言い方も普通ではなかったし、病んでいる身でありながら、病んでいない光太夫にそのような死の決意を迫ることも異常であった。光太夫は三五郎の死期が近いのではないかと思った。
 果たしてそれから数日を経ないで、三五郎は身まかった。三五郎の息を引き取った時は誰も知らなかった。朝食の膳が運ばれて来た時、伜の磯吉が父を起しに行ってみると、三五郎は両手を胸の上で組み、静かな顔をして息絶えていた。八月九日のことであり、島へ漂着してから二十日目であった。光太夫と磯吉が三五郎の死体をきよめ、新蔵と与惣松が柩を作った。病んでいる次郎兵衛だけは葬列に加わらなかったが、他の者全部の手で柩は海岸近くの形のいい丘の麓に運ばれ、そこに掘られた穴の中に入れられた」

といったように、光太夫が仲間の死に対していかに向き合っていたかを示すように、詳細な情景が描かれています。

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                   【光太夫がロシアでの求めに応じて書いた日本地図】

紆余曲折の末、光太夫は、磯吉、小市、アダム・ラックスマンなどのロシアからの随行者らと北海道の根室の地に上陸しますが、せっかく祖国に降り立ったにも関わらず、ここでも小市が壊血病で亡くなります。帰国の途に就く直前に、イルクーツクに留まることを余儀なくされた新蔵や庄蔵と一緒にロシアに滞留したいと言い出した小市が、最後の最後に力尽きてしまったことは、人生の残酷さを知るに象徴的な出来事の一つです(ただ、この小説には随所に人生の残酷さが登場しますが)。

残酷と言いますか、真骨頂は、帰国して江戸で幽閉されている際に

「俺たちは、な、磯吉、いま流刑地に居るんだ。そう思えばいい。長いこと方々さまよい歩き、やっとのことで流刑地に辿り着いた。そう思えばいい。な、そうだろう。流刑地に着いた以上、もう何も考えてはいけない。ロシアのことは考えまいぞ、考えまいぞ」

せっかく帰国したにも関わらず、祖国を流刑地と考えざるを得ない状況とはいかばかりであったか。もちろん、物理的には、郷土の伊勢国白子村へ帰ることを許されずに幽閉されている状況を指すのだと思いますが(後年の資料から、光太夫は白子村に帰った)、それのみならず、江戸でのある会合に誘われた際も、ロシア服をまとって赴くことを勧められ、一人だけ椅子が用意されそこに座り、ロシア文字の揮毫を依頼され、ロシアに関する質問攻めに遭うといった境遇であった。つまり、祖国に帰国しても、ロシア人とまでいかなくとも、日本人とは区別された特別扱いを受けることは、平易な表現で言えば疎外となるのかも知れません。ロシアでの日本人としての疎外感は受忍可能な疎外感であるのに対して、祖国でのロシアを経験した日本人としての疎外感は、かえって光太夫を孤独に陥れ、「流刑地」といった独特の認識を持つに至ったと言えるのではないでしょうか?

インターネットを用いることで瞬時に情報収集ができ、いかに距離が離れていようともモバイル端末でコミュニケーションが図れ、飛行機などの交通移動手段が発達した我々は、光太夫らの苦労を想像することすら僭越であると感ずる著作でした。

さらに言えば、この小説の序章に、光太夫ら以前にロシアに漂着し、かの地で生涯を閉じた複数の日本人についても言及されており、歴史的資料としても興味深い著作でした。