石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

スターリンとナチスの狭間で

7日(土)の13:30から『ドストエフスキーと愛に生きる』(2009年、監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ)の上映会を開催しました。この事業は、菰野町名古屋外国語大学との包括的連携に関する協定に基づく事業として実施し、学長であり、ロシア文学研究者である亀山郁夫先生の上映前のミニ解説を行い、その後、映画を上映しました。さらに詳しい映画解説のためのポストトークを亀山先生と副学長である杉山寛行先生に実施頂きました。

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この映画は、ドストエフスキーの翻訳(もちろんトルストイなどの他のロシア文学の翻訳を手がけていますが)を手がけたスヴェトラーナ・ガイヤーを取り扱ったドキュメンタリー映画です。スヴェトラーナは、ウクライナキエフで生まれ、当時はスターリン独裁政権下で幼少時代を過ごしました。その後、独ソ戦が開戦し、ナチスドイツの占領下となり、スターリンの粛清とナチスホロコーストの両方を経験することになります。彼女の父親はスターリン政権によって粛清され、ナチスには多くの友人の命を奪われました。キエフナチスと言えば、かの悪夢であるバビ・ヤールであり、まさにそのバビ・ヤールの虐殺の銃声を聞きながらの生活を余儀なくされました。

ただ、スヴェトラーナはドイツ語を話せたことによって、ナチスの通訳となり、その命を行き長らえることとなります。友人がバビ・ヤールに連行される中、自身はどのような思いをもって過ごしたのでしょうか?それは葛藤や矛盾などという安直な言葉で済まされるようなものではなく、無の闇ともいうべく心に大きな影を落としたと想像できます。あえて言うならば、スターリンナチスという選択不能の中から、自らの人生を掴み取っていく苛烈な作業を行ったということだと思います。そこにスヴェトラーナは「人生の負い目」を感じます。助けてもらったドイツへの負い目と裏切ったロシアへの負い目です。このことを平和な現代日本で安穏と生活している我々が、単なる裏切りや保身と切り捨てることはフェアではないですし、その行為を評価できる立場にはないと思います。この「負い目」がこの映画の一つのテーマです。

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もう一つのテーマは、翻訳者とは何かという問題です。通常、翻訳者は外国語を母国語に翻訳します。我々日本人であれば、英語の書物を日本語に翻訳するということです。しかしながら、スヴェトラーナは、ドストエフスキーの「5頭の象」(=『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、『未成年』、『白痴』の5大長編作品)を外国語であるドイツ語から母国語であるロシア語に翻訳するのではなく、ロシア語からドイツ語へと翻訳をします。亀山先生は、この作業を想像を絶すると評価します。この母国語から外国語への翻訳も、先の「人生の負い目」と関わっていると言えるでしょう。

劇中で、スヴェトラーナは翻訳のことを「ある究極的な本質に迫っていく憧れ」と表現します。この言葉は、原文であるテキストを読み込み、その一つ一つの事象を噛み砕くように言葉に紡いでいく作業を指しています。しかし、一方で翻訳の極意を「翻訳する時は、鼻を上げなければならない」と言います。これはテキストを下を向いて読み込むだけでなく、鼻(=顔)を上げて翻訳すること、つまり、一つ一つの言葉へのこだわりはもちろんのこと、テキストの間に存在する意味や作品の全体性を俯瞰しなければならないことの比喩です。ここにスヴェトラーナの翻訳家としての誇りと情熱を感じない訳にはいられません。

彼女の年齢を重ねた人間としての美しさが印象に残る素晴らしい映画でした。

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この映画上映会はおよそ250名の方がお越しになりました。亀山先生も杉山先生も決してポピュラーとは言えないこの映画に250名もの皆さんが集まられることに驚かれていました。菰野町以外からも多くの方がお越しになり、事務局への問い合わせの際に、上映会へ足を運ぶ理由を「三重県では初公開」であることや「名古屋でも1週間しか公開されなかった」ことなどをあげられた方が多かったということでした。中には、菰野町を知らない方もいたようで、説明に窮したようです(笑)事前の告知でも触れましたが、商業ベースでは陽の目を見ないこういった映画上映会を通じて、菰野町の文化振興を行っていくことは重要なことだと思います。さらに、今回は、この映画の解説をするのであれば、日本いや世界でも最も相応しい亀山先生と杉山先生に行って頂いたことは、至福であったと感じています。