石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

国民的辞典の原点

累計約2,000万部を誇る『新明解国語辞典』(=『新明解』(しんめいかい))と累計約1,000万部を誇る『三省堂国語辞典』(=『三国』(さんこく))は、いずれも三省堂から出版されている日本を代表する国語辞典である。

この国民的辞典のそれぞれの主たる編纂者(どちらもほぼ一人で編纂を行った)の山田忠雄(=「山田先生」)と見坊豪紀(=「ケンボー先生」)は、東京大学文学部国文科の同期という間柄であり、昭和18年5月に出版された『明解国語辞典』(=『明国』(めいこく))の共同編纂者であった。ちなみに、この時点では、「ケンボー先生」が主編纂者で、「山田先生」は「ケンボー先生」の助手という位置付けであったが、その後、紆余曲折を経て、辞典に対する理念や考え方の相違から別々の道を歩むこととなり、日本を代表とする辞典をそれぞれの思いを持って、編纂することとなる。

その二人の人生の歩みを編纂した辞典を通して描いたのが、佐々木健一(2014)『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋)という作品である。

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偶然であるが、手元に『新明解』の第三版第二十四刷(昭和58年発行)がある。恐らく、これは小生が中学校時代のいずれかの時に買い求めたもので、当時の国語の教師(記憶ではHという女性の教師)が「辞典は『新明解』」と勧めていたから購入したものである。それ以降、「なぜ『新明解』なのか」を考えることはなかったが、今回本書を読み進めるに当たって、当時の教師が『新明解』つまり「山田先生」のポリシーに共感を抱いていたのではないかと感じた。

当然のことながら本書でも真っ先に取り上げられているが、『新明解』で最も有名な語釈と言えば、第三版から登場した【恋愛】である。小生の手元にある『新明解』にも「特定の異性に特別の感情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」と記されている。一方で『三国』の代表語釈は、【エー(A)】で「キス。〔以下、B《=ペッティング》、C《=性交》、D《=妊娠》、I《=中絶》〕」が取り上げられている。このような特異な語釈を比較することも辞典を楽しむ一つではあるが、本書の真骨頂はそこではない。

【政界】を「〔不合理と金権とが物を言う〕政治家どもの社会」と語釈していることに明確に表れているが、「山田先生」は「辞書は文明批評である」(PP245)と言い切っている。また、『新明解』までの辞書には、【状態】を引くと「有様」と書いてあり、【有様】を引くと「状態」と書いてある「言いかえ」や「堂々めぐり」が散見され、それを克服しなければならないと感じていた。つまり、これまでにない辞書を作り、いってみれば語釈の可能性を追究しようとしていた。

一方で、145万の用例を採集した「ケンボー先生」は「辞書はかがみである。辞書は、言葉を写す鏡であります。同時に、辞書は、言葉を正す鑑であります」(PP250)と述べ、国語辞典は実社会を映し出す鏡であり、かつ鑑(=お手本)であると考えていた。

上記のような辞書に対する考え方の違いが二人が独自の辞典を作る動機となったのか、そもそも心情的な行き違いによって、自ずと相対的に異なる考え方を生起させるに至ったのかは、明確には分かり得ないが、現実社会における人間関係が辞典編纂という極めて公的営みに影響を及ぼし、それが社会を豊かにしてきたという事実に魅せられずにはいられない。

諸事情により、決別した「山田先生」と「ケンボー先生」が、人生の終盤に互いの心の中では許し合っていたのではないかという結論を導いている筆者の目線には、人情的な温かさを感ずるものの、「ケンボー先生」の家族が特にそうであるように、それぞれに味方し、その反目を支え続けた(つまり、「ケンボー先生」が心の中で「山田先生」を許していることは露知らずに、夫もしくは父親の敵というだけで嫌悪していた)関係者の心持ちを度外視しているところもまた面白かった。