石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

かなり驚きました

文藝春秋』(平成27年7月号)の目次を見て、「無着成恭」の文字が目に飛び込んで来ました。集団的自衛権の議論の真っ最中ですので、過去の有識者の平和に対する思いの復刻原稿か、珍しい名前ですので考え難いことですが、同姓同名の「無着成恭」だと思い、素通りしましたが、題名が「さようなら、こども電話相談室」となっているので、「まさか、あの『無着成恭』か」と思い直し、慌ててページをめくってみました。

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やはり、あの「無着成恭」でした。

しかも存命であったとは...。大変失礼しました。「無着成恭」は、小生のような不勉強の者ですら知っている戦後教育学の分野では著名な教育実践家であり、教育運動家で、昭和26年(1951年)に『山びこ学校』という山形県の中学生による作文の文集の刊行を手がけた人物です。ここに編まれた作文のほとんどは昭和26年~28年に書かれた作品、つまり戦後直後の作品です。

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このことからも明らかなように、小生にとっての「無着成恭」は歴史上の人物であり、書物の中の人間でした。確かに、大学及び大学院で教育学をかじっていた時代には存命であった記憶はありますが、まさか、この年まで存命であったとは、自らの不明を恥じるばかりです。普段、あまり肝が揺らされるほどの驚きはありませんが、このことは驚愕以外の何ものでもありませんでした(笑)

という訳で、書棚から『山びこ学校』(無着成恭(1995)岩波文庫)を引っ張り出して来て読み返してみました。昭和46年生まれという年代と生まれ育った菰野町の風土のおかげで、小生は『山びこ学校』に描き出される社会を辛うじて理解することが出来ますが、現代の大学生にこれを読ませてその社会的背景を含めて理解出来るだろうかということが真っ先に頭に浮かびました(もちろん、『山びこ学校』の子どもたちと同世代であっても、理解出来ない人は存在するとは思いますが)。そういう意味では、文化人類学民俗学の見地から貴重な資料であるとも言えます。

この中で、「学校はどのくらい金がかかるものか」という生徒たちによる〔調査報告〕が掲載されています。そのまえがきには
「今、私たちの家では金がなくて困っています。私たちが教科書の代金とか紙代とかをもらうにも、びくびくしながらもらわなければならないことが多くなりました。
それで、私たちは、山形や上ノ山の人たちも私たちと同じように、親にえんりょしながら金をもらっているだろうか、もらっていないとすれば、山元の子供だけがなぜこのようにしてもらわなければならないのであろうか、などということをいつかしんけんに考えてみたいと思います。
そのために私たちの班では『学校というものは、どのくらい金がかかるものかということについて、まず調べてみようじゃないか。』ということになり、みんなから小づかい帳をかりて調べてみました。そのことを次に報告します。」
とあり、小学校を含む全児童生徒が学校でかかったお金を帳面につけ、学校全体でどれくらいの経費がかかっているかを調べ、最終的には村の収入との比較を行うことになります。

ここには社会の問題を教育的課題としてとらえ(戦後社会科の出発はこういうところにあった訳ですが)、児童生徒が多面的に問題を考えていく典型的あり方が示されています。残念ながら、社会制度が高度化、多様化した現代では、このような実践を行っていくのは困難だと思います。

この文庫版の巻末にこれまた教科書の中の人である鶴見和子が「『山びこ学校』は歴史を創る」と題した解説を寄せています。無着成恭との出会いなどにも触れられていますが、この寄稿では『山びこ学校』の現代的意味を問い直しています。実は、その中に生活綴方運動(鶴見は生活記録運動と呼んでいますが)のその後において、四日市公害が触れられており、沢井余志郎さんと紡織工場で働いていた伊那谷女工とのやり取りについての記述があります。

やはり、小生にとって「無着成恭」は歴史上の人物であり、終戦直後を捉える一つのフィルターです。