石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

二代目吉田玉男襲名

過日、珍しく早めに帰宅出来たため、食事を済ませ、風呂から上がり、何気なくザッピングしていたら、E テレ古典芸能への招待文楽一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段 が放送されていましたので、まさかと思い、よくよく視聴すると、今年4月に国立文楽劇場で行われた二代目吉田玉男の襲名公演でした。

二代目吉田玉男は、人間国宝でもあった先代の吉田玉男(平成18年に逝去)に中学卒業後すぐに入門し、玉女(たまめ)という名をもらい、以後47年かけて玉男、つまり「女」から「男」になりました。先代が他界した後に、周囲から玉男を襲名するように勧められましたが、一代で大名跡となった玉男を継ぐことにためらいがあり、還暦を迎えた本年4月に襲名へと至りました。一谷嫩軍記の熊谷次郎直実は26歳の際に勉強会で初めて主役を果たした縁のある役であり、得意とする役です。

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                     【出典:平成27年3月11日(水)朝日新聞朝刊】

冒頭の二代目襲名口上は見ることが出来ませんでしたが、公演自体は前半、後半ともに見ることが出来ました。切場語り(前半:豊竹咲大夫、後半:竹本文字久大夫)も三味線(前半:鶴澤燕三、後半:鶴澤清介)も門外漢の小生でも少しは名前を聞いたことのあるような方ばかりですので、当たり前と言えば当たり前ですが相当な豪華なメンバーと言えるでしょう。

一谷嫩軍記は、源義経が、敵方である平敦盛を助けるために、熊谷直実に「一枝を伐らば一指を剪るべし」という意味の制札を渡し、敦盛を助けるために直実の実子である小次郎の命を差し出させる中の人間模様が展開されるストーリーとなっています。武士の世の中が到来しつつある中での命のやり取り、しかも、いくら命令と雖も己の息子の命を差し出さなければならない直実の心情描写が重要なポイントとなります。

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武智鉄二らの「風の研究」など現代浄瑠璃研究の大本となった『浄瑠璃素人講釈』(杉山其日庵(1926)。現在では2004年に岩波文庫から復刻版が出ている)において、

杉山其日庵は、「即ち、武士たるものが、主命と旧恩のために、合意の上、その子を殺したる事は、一方より云えば武士の本分である。故に妻に向かっても『武士道のために倅を殺したから、左様心得よ』と一言すれば何事もなきに、これを明言したらば定めて妻が悲嘆することを思い遣り、それさえ明言し得ぬほどの弱虫である。(中略)要するに熊谷の心理と演者の心理とは、頗る応接多忙の結果、この熊谷にて満場を泣かせるように書いたるものである。この根本的条件のもとに、その容貌や豪壮、言語や勇魁なるも、精神はあくまでも多情多涙の人格に語らねばならぬと思う。この腹芸が困難なる故に、これを三段目として、それ相当の太夫に語らせるの必要がある。もしこの段を受取りたる太夫にして、この腹芸を解せざる時は、ただ節を付けて素読する、曠職の太夫である」(『浄瑠璃素人講釈(上)』(2004)岩波文庫、PP222-223)

と批評し、直実が弱虫であり、多情多涙の人格であるという心情を理解した上で、太夫は語らなければ、「節を付けて素読する、曠職の太夫」つまり、職責を十分に果たしていない太夫であると断罪している。この潔い批評が杉山其日庵の持ち味である。

杉山其日庵は、ご承知の通り、玄洋社の総帥であった頭山満と同郷のよしみで交際(一文無し時代に同じく文無しの平岡浩太郎との面会の回顧録は相当面白い。『百魔』(杉山茂丸(1926)。現在では1988年に講談社学術文庫から復刻版が出ている)を参照)し、明治から昭和にかけてフィクサー(というと少し違うのであるが)として活躍した 杉山茂丸 である。其日庵とは、明日のことは考えずに、今日一日を何とか生き抜くという意味であり、茂丸は別名、ホラ丸と言われるほど、その場しのぎのホラを吹いて、そのホラのために苦しむということもよくあった。

杉山其日庵のような毀誉褒貶の激しい人物が、現代歌舞伎の基礎となる浄瑠璃研究の偉業をなしていることに、明治から昭和初期の時代のダイナミズムを感じ、大いなる感銘を受けるのは小生だけでしょうか?

最後に本当に枝葉末節のことですが、『浄瑠璃素人講釈』は、古本市場で一冊十万円以上した原本が岩波文庫で復刻されたことによって、神保町の豊田書房が潰れたという逸話も残っているぐらいの名著とのこと(坪内祐三福田和也『不謹慎』(2012)扶桑社)。