石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『ご飯が食べられなくなったらどうしますか?』

藤沢周平の『市塵』や大西康之の『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』、はたまた杉山其日庵の『浄瑠璃素人講釈』など「地方自治にはあまり関係のない書物ばかり読んでいて、仕事をちゃんとしているのか!」とお叱りを受けそうですので、少々仕事に関係のありそうな本を取り上げます。

滋賀県東近江市永源寺は、平成17年に市町村合併するまでは神崎郡永源寺町であり、千草街道(現在は、登山道として利用されている)によって菰野町とつながっている地域である。そこには、花戸貴司という在宅医療の「良医」がおり、日々住民の往診を行っている。

花戸貴司(2015)『ご飯が食べられなくなったらどうしますか? 永源寺の地域まるごとケア』(農文協)には、平成12年に赴任した東近江市永源寺診療所(名称は現在)の所長として、在宅地域医療に携わってきた筆者の思いが詰まっている。小生は「思いが詰まっている」というような偽善っぽい安直な言葉は敬遠する傾向にあるが、本書は、偽善的な言葉の響きを否定しうるに値するリアリティに溢れたエピソードが紹介されている。少々哲学的な表現になるかも知れないが、そのリアリティには残酷さや諦観が含まれており、「医療への妄信」(PP78)や「老いの必然性」(PP86)を問い直す格好の材料を提示している。

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医師の思いが詰まった残酷さや諦観という表現は、日本語として矛盾しているかも知れない。しかし、徹底的に現実を受け入れることが出来た人間には、決して矛盾とは感じないであろう。

旧の永源寺町を意味する永源寺地域は、高齢化率が30%であるが、奥永源寺などの山間部の集落では60%を超えるところもある。その永源寺では、多くの高齢者が、病院や介護施設に入らずに、自宅で自らのやりたいことをやりながら元気に生活をしている。「元気に」と言いながら、その中には、認知症やがんなどの病気を抱えている人もいる。認知症であっても安心して自宅で生活ができ、人生の最期まで住み慣れた地域で暮らせるそういった地域である。

その地域を支えるのに中心的役割を果たしているのが、「良医」である花戸さんであることは間違いないが、医師だけでそれが可能になっている訳ではない。筆者自身も「医師にできることは微々たるもの」(PP64)と述べ、「『なんとかして病気を治す』なんておこがましいことを考えず、看護・介護スタッフと一緒に地域に溶け込んで、地域の人たちと一緒に考えて汗を流す」と言っているように、コ・メディカルの枠も超えて、地域が一体となって、「老い」や「死」と向き合うことを示唆している。

ここに「地域包括ケアシステム」の真髄がある。
残念ながら、医師、看護師、介護士、ケアマネージャー、ボランティアなど医療や介護に関わる職種間の連携が不十分という現実がある(当然のことながら、永源寺は別であり、他にも円滑に運営している地域や施設も存在する)。看護や介護などコ・メディカルスタッフと医師との連携に問題があったり、逆に医療というために医師がすべてを抱え込んでオーバーワークになり全体最適が成立していない場合もある。
だから、円滑に運営されている永源寺には価値があり、真髄がある。

本書を読み進めると「地域包括ケアシステム」は高齢者だけの問題ではないことに気付かされる。というより、「良医」花戸さんの真骨頂は、高齢者だけを対象とせず、子どもを通して地域を見ていたり(PP72)、農業を通して地域を見ている(PP90)ことである。さらに言うならば、病気を通して人を見るのではなく、人を丸ごと捉える中に病気を見出している(PP120)ことで、地域住民が「老い」や「死」を受け入れることに大きな役割を果たしている。

地域福祉に関心のある方はもちろんのこと、自らの地域のあり方を模索する方にも一度手にとって読んで欲しい著作です。また、本年の9月5日(土)に開催予定の菰野町社会福祉大会の記念講演の講師として、花戸さんを招へいしました。著作を読んで講演を聴かれるとさらに有意義なものになります。ぜひ、ご一読を!