石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『レッドアローとスターハウス』

菰野町内を視察しながら、堤幸彦さんと雑談をする中で、原武史(2012)『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』(新潮社) が話題に上りました。堤さんは「狭山事件」の章について言及されましたが、小生は、西武鉄道共産党の関係についてしか記憶がありませんでしたので、再読してみました。

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この著作は、「鉄道と団地という二つのインフラストラクチャーに注目して」(PP5)戦後を読み解こうとしている。題名に即して申し上げるなら、鉄道=レッドアローと団地=スターハウスを象徴的に捉えて、それらを日本共産党を媒介しながら、戦後思想史を語る試みである。具体的には、JR中央本線とほぼ並行して東西に走る西武新宿線西武池袋線の沿線に開発されたひばりが丘団地や東久留米団地、滝山団地などで活動が展開された日本共産党の活動を紹介しつつ、親米反ソを貫いた自由民主党衆議院議員であり、西武鉄道創立者である堤康次郎(第44代衆議院議長)の活動を対比させながら、物語は進んでいく。

鉄道とその利用促進のために沿線を開発していく経営手法は、阪急電鉄の創業者である小林一三がその元祖と言われている。また、当時、西の小林に対して、東の五島といわれた東急の事実上の創業者である五島慶太多摩田園都市の開発や関係鉄道の買収を繰り返すこと(その強引な手法から「強盗慶太」との異名をとった)で、鉄道事業と土地開発を組み合わせた経営手法で事業を拡大していった。西武の堤も、国立や小平の学園都市開発を手掛けたものの、ほとんどの宅地開発は日本住宅公団が開発を行っていることから、小林、五島、堤とも、当たり前と言えば、当たり前だが、少しずつその経営手法は異なっている。ちなみに、五島は、東京高等師範学校を卒業後、三重県の当時四日市市立商業高校(現三重県四日市商業高校)で教鞭をとり、その生徒や同僚教諭の覇気のなさに嫌気が差し、1年で職を辞し、東京帝国大学法学部を経て、鉄道事業に携わるようになる。四日市商業高校の雰囲気に覇気があったのなら、東の五島が生まれなかったと思うと歴史の妙を感じざるを得ない。

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                        【出典:『レッドアローとスターハウス』】

戦後の日本は、GHQの占領期に始まり、その後の東西冷戦期などを通じて、政治、経済、文化、生活などあらゆる面で米国の影響を受けたことは間違いないし、安全保障の観点からも戦後70年を過ぎた中でも、国内に決して小さいとは言いがたい規模の他国の軍隊が駐留しているという事実からも米国の傘下であることは否めない。しかしながら、本書では、日本の鉄道と住宅の発展については、実は米国ではなく、旧ソ連と酷似していることを指摘している。日本は、米国の空爆による被災人口は980万人、被災都市は250、被災家屋は233万戸、一方、旧ソ連は、ドイツによる破壊によって、被災人口は2500万人、被災都市は1710、被災家屋は600万戸 と日本をはるかに上回る数になり、いずれにしても、深刻な住宅不足に悩んでいた。また、アメリカのモータリゼーションの影響も受けるものの、都市部における大量移動手段も、日本も旧ソ連ともに鉄道が重視され、住宅と鉄道の2点における日本と旧ソ連の類似性が見られる。

この深刻な住宅不足という類似性に起因して共産主義旧ソ連に倣って、西武鉄道沿線の団地において共産党の活動が活発になったなどと短絡的な結論が導かれている訳ではなく、団地はあくまでも物理的な住む空間を提供したに過ぎず、それに付随した保育所の確保や小中学校における教育環境の向上、通勤通学上の駅までの利便性の向上など様々生活に根ざした諸問題の解決のために、団地住民による自治意識が芽生え、その活動が政党活動と連動する結果となったとしている(逆に、自治組織と党活動がある一定の関係性を有したため、純粋な自治活動を求めた住民が自治組織に入会しない現象を生み出したことも示唆している(PP302))。

また、西武沿線に団地が造成される以前である昭和27年のサンフランシスコ平和条約の発効前日に東京の中野区に発足した中野懇談会の活動は、西武新宿線野方駅に居住する上田耕一郎が事務局員を務め、西武沿線と革新系との関わりが見られる(ただし、中野懇談会は、当時の日本共産党の実権を握っていた所感派とは一線を画し、後に上田は中野懇談会を「幅広主義」と呼ぶことになる。なお、上田耕一郎は、不破哲三(本名は上田建二郎)の実兄である)。

あと、昭和37年に狭山公園で開催された第4回アカハタ祭りにおいて、西武鉄道は、西武新宿と池袋の両駅に特設切符売場を設け、国鉄に乗客を取られないためと思われるが、ご丁寧にも往復割引切符も発売した(PP224)。このことを親米反ソの堤自身が知っていたのか、かつて共産党に籍を置いていた堤清二(作家名:辻井喬。康次郎と妾であった青山操の子)の発案であったのか、はたまた商業上の必然かはわからないが、この鉄道を介しての商業主義と共産党の政治活動がウィンウィンの関係にあることは興味深い。さらに、面白かったのは、この第4回アカハタ祭りと同時に開催された「民青の多摩湖1周マラソン」の優勝者にはカメラが、2位から6位までにレーニンの石膏像が、7位から15位までにレーニン肖像画が、それぞれ贈呈されたとのこと。2位から15位の人がどのように持って帰ったかも気になるが、発注をどのようにしたのかも相当気になった(笑)

そもそも再読の発端である狭山事件については、第11章で記述されているが、本著では詳細なダイヤ運行状況などを加味し、冤罪の可能性が高いと結論付けている。