石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『三井物産初代社長』

以前に パラミタミュージアム で開催された 桑名・諸戸家コレクション 茶道具にみる日本の美についてのブログ益田鈍翁(=益田孝)のことに触れたところ、知人から「これも面白いので」ということで、小島直記1984)『三井物産初代社長』(中公文庫) を頂戴した。

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この著作は、近代日本の礎を築いた人物を描くことで定評のある小島直記によって書かれた、29歳で三井物産の初代社長に就いた益田孝の物語である。ご承知の通り、三井物産株式会社 は、単体の売上だけでも4兆円を超える押しも押されぬ大企業である。その起源は、幕末から明治維新の動乱期といっても差し支えない明治9年(1876年)まで遡る。

さて、益田孝であるが、もともと益田徳之進という名であったが、文久3年(1863年)の第2回遣欧使節である横浜鎖港談判使節団に同行するために、益田進と名を変えた。これは、もともと父である益田鷹之助もこの使節団の一員として決まっていたところ、父が15歳の長男の徳之進(=孝)を立身出世のために連れて行こうと考えたが、当時、家族から複数使節団に加われないきまりであったため、鷹之助の家来ということで改名をした(ちなみに孝となるのは、明治に入ってからであるが、以下は孝で統一する)。孝は、11歳の時に、東京麻布の善福寺にあったアメリカ公使館で英悟を習い始め、日米修好通商条約を結んだことで知られる タウンゼント・ハリス にも可愛がられた。

当時から語学の習得を目指し、かのハリスとも交遊し、15歳で国の使節団の一員としてヨーロッパに渡るというのが、今で言うと宇宙飛行士となり、宇宙へ行くぐらいの価値があったのではないかと思う。この一団には、のちに商法講習所(現在の一橋大学の前身)の初代所長となった矢野二郎も加わっており、青年期に孝と深い交流があった(孝の妻は矢野二郎の妹栄子であるが、時を経て、矢野と孝は進む道を隔てることになる)。

本書を通じて、最も印象に残ったことは、三井物産の成り立ちである。資本主義社会における企業(起業)は、資本があり、それを動かして事業を興そうとする発想であることは承知の通りであるが、三井物産つまり孝は、資本に先行して、人間関係があり、その人間関係によって事業が実現されるという「無資本会社」が機能したところに特筆すべき点が存在する。それを可能にしたのが、「四つの出会い」と言われる人生の節目での人間関係である。それが、孝と誰との出会いという風には記述されておらず、ウォールシ・ホールやロバート・アルウィン、團尚静(血盟団事件で殺害され、三井財閥の総帥の團琢磨の父)、岡田平蔵や井上馨など人と人とのつながりから自然発生的に交友関係が広がっていったように小生はとらえている。

他にも、中上川彦次郎との確執や井上馨との出会い、渋沢栄一らとの交遊といった近代日本の政財界の人間模様が興味深く描かれている秀逸作だった。

その中でも福地桜痴の女遊びの記述は、特に面白かった。なんといっても結婚式の夜に、吉原に泊まって帰宅せず、深い中になっていた花魁の源氏名「桜路」から自らの雅号を「桜痴」としたのは、当代随一のジャーナリスト(金品のための御用ジャーナリストであったが、日本に新聞を広めた人物ではある)の面目躍如といったところであろうか(笑)