石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『疵』

以前のブログ福富太郎の『昭和キャバレー秘史』を取り上げた際、昨年末に死去した安藤組(昭和39年(1964年)解散)の安藤昇や花形敬に触れた。そもそも『昭和キャバレー秘史』自体も、以前のブログ福富太郎を取り上げたことから、その著書を頂いた訳だが、今回の『疵』(本田靖春(1987)文春文庫)も、『昭和キャバレー秘史』のブログを見て、同人が小生に勧めて頂いた著作である。

本書は、戦後の激動時代に安藤組の大幹部であり任侠会の伝説的存在であった 花形敬 とその時代を描いたノンフィクション小説である。時代背景や事件などの事実確認のために多くの資料が用いられているが、花形の人となりについては、安藤や石井福造(故人、元住吉連合常任相談役)へのインタビューや安藤の著作『やくざと抗争』などをもとに記述されている。

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花形は、本書の帯に「力道山より強かった男」(力道山を一蹴したのは、花形ではないとする説もあるが、本書では安藤の証言による)とあるように、素手ごろ(武器を持たないケンカ)では圧倒的な強さを誇っていた。

その強さは、当時18歳の石井が、16歳であった花形に初めて面した際のエピソードに表れている。国士館中学の3年生に編入(素行の悪さからそれまでに四つの学校を退学処分になっていたため通常よりも3年遅れ)した石井が、これまでの実績(=素行の悪さ(笑))により、編入直後から国士館の番長となった。その横柄な態度が気に入らない連中の数人が、花形に泣きついた。暴れん坊の集まりである国士館から見れば、花形の通っていた千歳中学校は石井の眼中にはなく、軽い気持ちで花形と対峙した。

石井は、その瞬間を
「あいつ、縁なしの眼鏡をしてたでしょう。それをかけていると品がいいんだけど、喧嘩するときにすぐはずすんです。すると、凄い顔になる。顔見ただけでびっくりしちゃった、おれ。物凄いんだものね。疵が、右の眼の上と、左の頬と、あごと、首筋と・・・・・もうあのころで四ヵ所ぐらいありましたかね。おれだって、学生同士でしょっちゅう喧嘩やってて、身体がでかかろうと何だろうと、たいがいの相手には驚かなかったけど、花形のときだけは本当にびっくりした」(PP57)
と懐述している。

この著作の題名にもなっている「疵」が16歳そこそこで四ヵ所もある顔は驚愕以外の何物でもないだろう。小生のような素人であれば見当違いもあるだろうが(多分、ないと思うが(笑))、それなりの場数を踏んで国士館の番長になっている石井から見れば、瞬間で、それまでに花形が潜り抜けてきた修羅場とその実力が、肌感覚として認識出来たに違いない。

その「疵」については、喧嘩でついたものもあるが、自分でつけた疵もあるという同級生の証言もある。
その自損行為について、安藤は
「あの男にはマゾヒスティックなところがありましてね。喫っている煙草の火を、自分の腕や掌に押しつけて消すんですよ。そういえば、私の見ている前でも、自分の顔を切りましたね」(PP59)
と証言している。

花形といえば、ロシア人のジム(本名:ワジマス・グラブリ・アウスカス)殺害事件が有名であり、『昭和キャバレー秘史』に取り上げられていたが、本書でも記載があった。しかしながら、ディティールが異なっており、福富は、花形がジムをメッタ斬りにしたとあるが、本田は、あくまでも素手でジムに傷を負わせたとしている(PP204)。結論的には、花形とジムが、夜の街でもめ事を起こし、花形が殺してしまったことには間違いないのだが、読み比べると、福富はジム寄りの目線で記述していると感じたし、本田は花形寄りだと感じた。

花形とその時代は、戦後の混乱期であった。それを象徴するものの一つに「闇市」がある。
闇市」がその名の通り、「正規ではない」ことを意味すると言って、それが直接的に「悪」を意味する訳ではないことは、当時の時代を少しでも理解する者であればわかることだろう。「悪」であることは譲歩するとしても、「必要悪」のレベルは許容されると思う。その「闇市」に関して、『東京闇市興亡史』を引用しながら、玉音放送からたった三日しか経っていない昭和20年8月18日に関東尾津組が、「各種不用品を適正価格で引き取る」と都内主要紙に掲載した広告を紹介している。その広告を見た多くの人々が尾津組に押し寄せ、尾津マーケット(「新宿マーケット」)が開設された。この新宿を皮切りとして、都内に拡大していった「闇市」は、庶民に欠かせないものとなった。生活に不可欠となったということは、それ相応に利権が発生し、それを手に入れようとする輩がしのぎを削ることは世の常である。時代は、戦勝国による占領期であり、外国人(本書では、「三国人」)との諍いも頻発した。なかでも、「渋谷事件(昭和21年7月19日)」(及びその発端となった「新宿事件(昭和21年6月16日)」)は、日本の警察と博徒テキヤとがタッグを組み、台湾人を排除しようとしたものである(日本の警察側の報告に拠っている『渋谷区史』と米軍当局の発表に基づく『闇市水滸伝』(平岡正明)とでは、事件の扱いが大きく異なっているのも興味深かった)。

本書のむすびに、花形の死(妻に頼まれて、別に借りていた渋谷のアパートにアイロンを取りに行った後に犯人に付けられて殺された)に、任侠の道とはかけ離れた「マイホーム」時代の風潮を垣間見る筆者(垣間見たものの、本音のところでは否定している)が、
「そのような最期は、本人にとって不本意であったに違いないからである。さらには、彼を終生の異端として位置づけることにより、そこに仮託して、小さな枠組みの中での安定と引き替えに、良民と呼ばれるわれわれが売り渡した多くのものについて、考え続けたいと思うからである」(PP268)
と結ぶことによって、人間の欲望を悪とみなし、もしくは無いものとして扱うことで漂白された安全地帯に逃げ込んでいる「常識人」の空虚さを白日にさらそうとしている。

欲望や暴力というわかり易い社会悪をどこまで許容し、包括出来るかが、格差や教育を語る際の分水嶺であるという確信を促す書であった。

蛇足だが、著者の本田靖春は、「東の本田、西の黒田」と言われた読売新聞社会部出身の有名ジャーナリストであり、千歳中学校における花形の2級後輩に当たる。本田の花形への眼差しに朋輩感を受けるのは、小生のナイーブさだろうか?