石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『死んでいない者』

移動時間に整理することがなく、比較的自由な時間となったので、かねてから読もうと思っていた第154回芥川賞受賞作『死んでいない者』(滝口悠生 著)を往復の新幹線で読んだ。といっても単行本ではなく『文藝春秋』(2016.3号)に掲載されたものである。

この作品は、もちろん回想場面はあるものの、基本的には、子どもを五人、孫を十人持つ男性(=故人)の通夜の日を描いたものである。

イメージ 1

新幹線に乗るまでに3頁ぐらい読んでいたが、三河安城駅を過ぎた辺りで登場人物が多い予感がして、書類の裏にメモを取りながら読み進めた。これがクロスワードパズルを解く感覚で楽しかったことに加え、作者の意図的な遊び心を感じることが出来た。ごくごく単純に登場人物を小説に表れた順番に抜き出していく作業であったが、寛やその二人の子どもや知花や英太は、初めて登場した際には、故人との関係性が記述されていないため、相関図にいきなり書き込むことが出来ず、相関図の脇にペンディングせざるを得ず、読み進めていった後に、「あっ!寛はこの人の子どもだったんだ!」とか、「故人の長男である春寿の奥さんがやっと出てきた!」などとある種のモヤモヤ感を払拭出来た際の快感が別の醍醐味として味わえた。

これもまた作者の思惑であろうが、故人の姓はわかったが、名は最後までわからなかった。

あと、保雄の奥さんも何度読み返しても見つけることが出来なかった。あえて、保雄の奥さんを伏せたのは、保雄の家族の平凡さを示したかったのか、故人の子やその配偶者との関係性の希薄さを暗示していたのかは定かではないが、相関図のその空白はかえって特異性を大きくさせており、著者の術中にはまってしまった。

イメージ 2

この小説の面白さは、何といってもズラしにある。
このことを滝口本人がインタビューで答えている(『文藝春秋』(2016.3号)、PP376)。

インタビュア
 これまでに影響を受けられた作家を挙げて頂けますか?
滝口
 最近、田山花袋の『蒲団』を読み返しました。僕は「死んでいない者」で複数の視点から語る物語に挑戦していたので、三人称の多視点で綴られているこの作品の語りの歪さには考えさせられました。同じく語りが特徴的な作品として、横光利一の『機械』も好きですね。三人称に加えて、「自身の内面」をもうひとつの人称として描く四人称の小説で、読んでも結局何だか分からなかったりするんです(笑)(後略)

と、話者の人称にこだわりを見せている。さらに、時制の倒錯もあり、小説の構造としても意欲的であった。

どの登場人物も強烈な個性を持っており、甲乙丙丁付け難いが、奈々絵の状況や感情に寄りかからない強さと故人の親戚関係を的確にとらえる冷静さが気になる一方で、その奥底に潜む激しさに魅力を感じた。

ただ、何といっても、美之と知花である。
中学校の途中から理由もなく不登校になった兄である美之と知花の通夜の後のやりとりが

「引きこもりがちではあるにしても、卑屈であるわけでも、塞ぎがちであるわけでも、何かに熱中しているわけでもなく、むしろ平然としていて、スーパーに買い物に行ったり、何か凝った料理をつくって祖父と一緒に食べたりもしているらしい。そんな話を聞いて、いったい何を考えているのかわからない、などと言うのは自分が何も自分で考えようとしていないからだ。あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な、新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいのにと思ってるんだ、と知花はさっきプレハブで一緒に酒を飲んでいる時に言っていて、立派なことを言う妹だ、と美之は思った」

と描写されている。人称の出し入れにも気を付ける必要はあるが、人間のすべての行動に原因と結果があり、その行動を安易なステレオタイプに当てはめ、処理し、自らの安心を得ようとする性根に懐疑よりも強い肘鉄を食らわせ、無理解による理解の始末の悪さを実に的確にとらえている。

他方、謎の残る箇所も多く、特に、夜中に寺の鐘を誰が打ったのかを誰か教えて欲しい(笑)