石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

立石寺

岩波文庫が創刊90年となり、岩波書店が毎月発行している『図書』が、「私の三冊」という特集で、本年4月に臨時増刊号を出した。それを知人から頂戴し、見るともなく見ていたら、嵐山光三郎の三冊が、『芭蕉紀行文集』、『芭蕉 おくのほそ道』、『芭蕉俳句集』であった。

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それもそのはず、嵐山は芭蕉に関する書物を数多く執筆しており、最近になって単行本化されたが、講談社の月刊『本』でも2年ぐらい前までは、「芭蕉という修羅」という連載をしており、これまた同じ知人から頂戴していた『本』で目にしていたので、再度、勉強のつもりで『芭蕉紀行文集』、『芭蕉 おくのほそ道』、『芭蕉俳句集』の古本三冊を7月上旬に入手してあった。

さて、昨日のブログでも取り上げたが、高校総体登山競技の閉会式のため山形県まで行くこととなった。大都市以外の出張の際には、出張先に関わる書籍を調査して、携行することが多いのだが、今回は忙しさにかまけて、事前の調査が不足しており、出発直前になり、「果たして、何を持っていこうか?」と思いつつ、「今、読み進めている出張先とは関係のない書籍で時間を潰そうか?」と思っているところに、過日、購入してあった『芭蕉 おくのほそ道』(1979年、岩波文庫)が目に入ったので、カバンに入れていくこととした。

まずは、例の
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
 古人も多く旅に死せるあり。
有名な冒頭を読み始めた。

 古人も多く旅に死せるあり。
とは、これから出張に出る身としてはあまり気持ちの良いフレーズではないな(笑)、などと思いながら、解説に目をやると、芭蕉は、「古人」を西行や宗紙、杜甫をイメージし、特に、西行については格別に思慕していたとあり、受験勉強では到達しないであろう新たな発見があった。

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序章から読み進めてみたものの、これではいつまで経っても山形には辿りつけないと感じ、山形にゆかりのある段を探すと、尾花沢の段、山寺の段、大石田の段、最上川の段、出羽三山の段、酒田の段とあり、山形市周辺の場所としては、山寺の段で取り上げられている立石寺があった。しかも山寺は、かの有名な「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」が作られた場所であり(高校受験時の約30年前の記憶が徐々に甦ってきました(笑))、近くに山寺芭蕉記念館もあり、郷土の歴史と観光振興の観点からも訪れてみる価値があると判断し、時刻表などを調べて、向かうこととした。これはまさに、義仲寺に墓参した機縁で芭蕉が誘っている のか、片雲の風、そぞろ神や道祖神の招きによるものかと感じた。

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山寺の立石寺芭蕉記念館に滞在出来た時間は、およそ2時間(15:00~17:00)だった。

その中で最も印象的だったのは、その観光客の多さである。さらに踏み込んで言うなら、欧米系の外国人観光客の多さである。山形空港からバスと電車を乗り継いで約1時間(乗り継ぎは含まない)、仙台駅からは電車で約1時間20分間(乗り継ぎは含まない)の場所にある立石寺の最寄り駅であるJR山寺駅に、欧米からの多くの外国人観光客が訪れているという事実は、菰野町の観光振興にとって必要な何かを示唆しているようだった。

閑話休題
山寺駅から立石寺境内の奥の院までは、ゆっくり登って約3時間と言われているが、高齢者も含む多くの皆さんがかなりきつい石段を登っていた。小生は、時間の関係で、汗だくになりながら1時間弱で往復した。イメージとすると福王山と同じくらいの傾斜で、石段の距離が2倍ぐらいだった。

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 岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。
 岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

現代は頑丈な石段や観光客用の手すりが備わっている場所もあるが、当時は簡素な石段ぐらいはあったものの、もしかすると崖の淵を通らなければならなかったかも知れない。多くの観光客はいるものの、山道では、時折、人影がまばらになり、山の静寂を感じることも出来た。

芭蕉閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 にインスパイアされ(蝉の声の蝉は、芭蕉が敬愛した蝉吟がかかっているとも言われている)、この日の一句は 石段に 当たって砕ける 蝉時雨

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