石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

平和への多様なアプローチ

過日、菰野町遺族会菰野町が主催となり、第38回菰野町戦没者を追悼し平和を祈念する式典 を挙行しました。

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拙ブログでも取り上げているように、町内の各区や各地区単位で季節ごとに戦没者慰霊祭が執り行われており、小生も可能な限り参列しています。先の大戦の折には、現在の菰野町という地方公共団体は存在せず、現在でいう区単位での帰属意識が強かったと思われますので、各区や各地区での慰霊祭は、御英霊にとっての意味は大きいと思います。その一方で、複雑な思いを抱きながら戦地で命を落とした御霊の安寧と平和を祈念することは、基礎自治体の責務として大きな意味を持つことだと思います。

今回の式典でも、八風中学校2年生の鈴木咲良さんが、菰野町の非核平和都市宣言 を朗読し、

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菰野中学校3年生の村井凜太朗君が「中学生広島平和訪問に参加して」と題した下記のような意見発表を行い、

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 僕は、最初は友だちと広島へ行けるということで、とてもワクワクしていましたが、いざ行ってみると楽しむ気持ちでいた前日までの自分が恥ずかしくなりました。広島では、これからの自分の生き方に関わるほど貴重で、大切なことをたくさん学ぶことができました。
 広島駅に立って、まず目を引いたのは、自動車と同じように道路を走っている路面電車でした。かつて三重県桑名市伊勢市でも走っていたようですが、今ではすっかり見なくなっています。電車の種類もいろいろあって、新型電車や被爆当時の電車も走っていました。
路面電車に乗って、最初の見学地、袋町小学校平和資料館に到着しました。ここは、被爆当時の校舎の一部を残して資料館としており、建物の中には焼け残った柱などが補強されつつもしっかりと保存されていました。壁面には、被爆者の消息を知らせる伝言が数多く書かれていました。これは、校舎の中が原爆で焼け、壁がススで黒くなったので黒板がわりにして、教え子や家族を探すため、チョークで伝言を書き残したものです。我が子を探す親の気持ちなどが痛いほど伝わってきました。
 次の見学地は、平和記念資料館でした。中はとても広く、様々な言葉で説明書きがしてあるなど、外国の人たちにもわかりやすいよう工夫が施されていました。被爆後に見つかって保存されている三輪車、熱線で溶けて中に水が入ったままのガラス、ボロボロに焼け残った子どもや兵隊の衣服、どれを見ても原爆の威力のすごさや悲惨さが伝わってきました。
地下の大きなホールで、國分良德(くにわけよしのり)さんから当時16歳だった時の被爆体験談を聞きました。國分さんはその日のうちに、9人家族のうち4人を亡くされたそうです。防火水槽に飛び込み、炎の中を走り抜けて、何とか生き延びた國分さんの放射線の話に恐怖を覚えました。國分さんの隣でお酒を飲んでいた2人が数日後に死んでしまったそうです。その酒樽の中のお酒は放射線に汚染されていたのです。このように、原爆は、直接的に影響する爆風や熱風の他に、間接的に影響する放射線により、生き残った人たちを徐々にむしばんでいきました。現在でも16万人の人が被爆者健康手帳をもって原爆症と闘っています。
 私たちは、昨年から原爆の子の像の前で「平和セレモニー」を行っています。これは、平和宣言を行い、千羽鶴を献納し、キャンドルを灯しながら、みんなで「ハナミズキ」を合唱するというものです。セレモニーを始める前にみんなで写真を撮ろうとしていたら、アメリカとブラジルの人が「いっしょに写真を撮ろう」と声をかけてきてくれました。外国の人はみんな優しくて温かくて積極的で、もう戦争なんか起こらないのではないかと思うくらい嬉しかったです。みんなで歌った「ハナミズキ」は、ろうそくの火が消えたり、歌が止まったりするなどいろいろハプニングも起きましたが、心を込めて歌えた気がしました。セレモニーが終わった後、周りで見ていた外国の人たちからも拍手が起こり、この瞬間に、世界が平和の文字でつながったような気がしました。
 最後に、原爆が日本に落とされてから、72年が経過しました。現在では、原爆の数十倍から数千倍の威力を持つ水爆のことが話題になっています。世界には、水爆を持っている国がいくつかあり、それぞれの国が数百発から数千発保有しており、全部合わせると全人類が数回滅びてしまうほどの威力だと言われています。この水爆が、もし今の日本に落とされたならいったいどうなるのでしょう。たったの一発で何百万人の人々が一瞬にして命を奪われ、人々は混乱し、日本経済も崩壊してしまうでしょう。そして、何千万人もの人々が辛く、悲しい想いをすることになるでしょう。ですから、このような悲劇を引き起こす爆弾は、この世界から絶対に無くしていかなければならないと強く思います。
 今回の広島訪問で、原爆の悲惨さを知るだけでなく、外国の人たちの平和への思いにも触れることができ、僕たち日本人もこれらの事実をしっかりと後世に伝えていかなければならないと感じることができました。このような機会を与えていただいてありがとうございました。

八風中学校3年生の白井駆君が「平和の輪」と題した下記のような意見発表を行い、この夏に訪れた広島での体験に基づいた戦争や平和に対する考えを述べました。

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 私は、被爆地である広島を訪問し、平和について学ぶ機会を得ることができたことに深く感謝しています。訪問では、日常生活では感じる事ができない、戦争の恐怖や平和の大切さを感じる事ができました。
 広島で、原爆の被害の一部を見るまでは、平和についてじっくり考えたことはありませんでした。しかし、自分の目で被害の実態を見たり、耳で被爆者の話を聞いたりすることで、自分なりの答えとまではいかなくても、考えをもつことができました。今から、訪問の中で印象的な体験と、それによって形づくられた私の平和についての考えを述べたいと思います。
 私は訪問をするまで、正直言って平和学習なんて必要なのかな、と思っていました。こんな平和な日本が、ほんの何十年か前まで戦争をしていたというのも実感がわきませんでした。でも、その考えも、実際の被爆者の生々しい体験談を聞くと一変しました。その方は、9人家族でしたが、原爆によって4人の家族を亡くしました。家族以外でも、目の前でたくさんの人が死んだそうです。その中には知り合いや、友達も多くいました。これだけ恐ろしい話を聞いても、あまり実感がない人もいると思いますが、想像してください。あなたは、いつもと変わらない普通の生活を送っています。そこに、突然原爆が落とされ、一瞬にして本当に多くの人の命が奪われます。その中には、あなたの友達や家族も含まれているかもしれません。被爆者の中にはアメリカ人も含まれていたそうです。原爆は無差別なのです。
 私たちは、佐々木禎子さんの霊を慰めるために建てられた「原爆の子の像」の前で、平和セレモニーを行いました。セレモニーで千羽鶴を像に納めましたが、像には他にもいろいろな千羽鶴が納められていました。世界では今でもさまざまな問題によって紛争が起きていますが、世界には平和を願っている人もいるということが分かってとてもうれしい気持ちになりました。千羽鶴を納めた後、全員で「ハナミズキ」を歌いました。「ハナミズキ」は、人のしあわせを願う歌です。私は、世界中の人々がそんな気持ちになってほしいなと思いました。
 私たちは、訪問の中で2つの小学校に行きました。袋町小学校と本川小学校です。なぜ小学校に行ったのかというと、これら2つの小学校は、一部が資料館として当時のまま残っているからです。資料館の床、壁、天井には、原爆の爪痕が残されていました。地下にある鉄の窓枠が吹き飛んでいたり、木の部分がすべて焼かれていたりするのを見て改めて原爆の破壊力、恐ろしさを知りました。資料館には他にも当時の写真や物が展示してあり、そこからは、原爆が落とされたことによる影響だけでなく、必死に生きていこうとする人々の姿が読み取れました。そのように、どんなときでもあきらめずに生きていくことが大切なのだと思います。
 これらの体験を通して私が思ったことは、平和な世の中をつくるにはどうしたらよいのかということ、それだけでした。答えはすぐに出ました。武器を捨てればいいのです。しかし、それはたぶん不可能なのだと思いました。そこで私は、争いをなくすのではなく、世界を平和にすればいいのではないかと考えました。世界の争いに対抗できる平和の力、具体的にはひとりひとりの平和への願いを共有して、みんなでつながっていき、「平和の輪」をつくるのです。訪問の中で、私たちは外国人の方と話し、いっしょに写真を撮りました。その方も、私たちも、平和を願っていました。私は、その方と平和への願いという糸で結ばれたのだと思いました。他にも、資料館などで案内してくれたボランティアの方、被爆体験を話してくれた方など、訪問でたくさんの方とつながり、結ばれることができた気がします。私はこのようにいろんな人たちが平和の輪をつくり、より一層平和を願っていくことが争いのない平和な世界への道なのだと思います。

その後、菰野地区婦人会コーラス部による合唱、献花で式典は終了しました。奇しくも二人の中学生が述べたように、戦争や平和に対する考え方や感じ方は千差万別だと思います。それぞれが考えるアプローチを議論し合って、理想と現実を見極めることが大切だと思います。

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過日、永井区の井手神社の秋の例大祭に参列しました。素晴らしい天候の中、子どもたちによる山車も出されて、盛大に挙行されました。

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