石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

地獄に悪女(笑)

知る人ぞ知る 稲葉禄子さんの『囲碁と悪女』(2017、角川書店を拝読した。肩書きは囲碁インストラクターにも関わらず、小沢一郎さんが帯にコメントを寄せていること自体からして只者ではないことはご理解戴けると思う。

稲葉さんは菰野町に何度も来て戴いているし、色々なご縁もあり、これまでもお付き合いをしているので、なかなかな人物であるとは思っていたが、半自伝の類の本書を読んでその意を強くした。

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最終稿の時期に「著述は進んでますか?」と尋ねたら、「何とかいけそう!」と答えたので、「あんなことやこんなことは書いたのですか?」と聞いてみると、「それは無理!(笑)」と言っていたので、「あんまり大したことは書いてないんだろうなぁ〜」と思いながら、手に取ってみると、それでも内容はぶっ飛んでいた。と言うか、薄々気付いてはいたが、生きる価値感や基準が異なっていると再認識した。

小生が気に入った点は、喜怒哀楽の「怒」が書かれていないことである。もちろん稲葉さんも人の子だから、彼女の人生に「怒」がない訳はない(でも、ひょっとすると、人ではなく悪魔かも知れないから「怒」が無いのかも知れない(笑))。「怒」の代わりに好奇心という意味の「奇」や博愛や慈愛に似た「愛」が描かれている。

稲葉さんにご紹介戴いた人で、民間企業から日本棋院に出向したことのある方が、稲葉さんの仕事のやり方を見て、「あのやり方では、もってあと10年だな」と言ったことが印象に残っていたし、数年前のこの言葉には説得力があった(もちろん、その発言をした方も出版記念パーティに顔を出しており、久々に近況報告をした。加えて、蛇足かも知れないが、稲葉さんには、出版記念パーティの際の景品として菰野町の特産品をお買い上げ戴いた)。

しかし、本著を読んで、その言を撤回しなければならないと反省をした。男の嫉妬と羨望を推進力に変える彼女のビジネスモデルは見事に進化している。男のプライドをくすぐり、織田信長のような振る舞いで、取り巻く男を競わせるその手法は、脱帽と言うしかない。彼女を取り巻く紳士たちは、言外に言われている「励めよ!」に乗せられ、一直線に励んでいるのである。

小生は、稲葉さんと盤を挟んだのは、1回だけであり、それは囲碁と呼べるものではなく、野球で言えば、近所のお姉さんにキャッチボールをしてもらったぐらいのものである。今考えてみれば、囲碁が出来なくて良かったと思う。盤を挟めば、本性を見抜かれ、あの無間地獄のような「魔界」にハマっていたかも知れない(笑)
信長然とした態度に接し、一直線に励んでいる紳士たちにとってのあの悪魔の微笑みと囁きは、無自覚の内に陥っている無間地獄が故に、菩薩の笑みと誘惑に感ずるのだと確信した。

「突然の松山行きと絶局の相手」(PP172~PP180)の節に既読感があり、記憶の糸を辿ってみると、以前、稲葉さんが『文藝春秋』の巻頭コラムに執筆した内容ではないかと思い当たり、自宅のバックナンバーをめくった。平成26年(2014年)1月号に「最後の対局」という題の文章があった。

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そこには、与謝野馨さんと小沢一郎さんの対局のことも書かれており(小生はすっかり忘れていたが)、よくよく考えると、このコラムが『囲碁と悪女』の骨格をなしているのだと感じた。

この「突然の松山行きと絶局の相手」を含めて、「AV男優とジェットコースターに乗りながらホラー映画を観るような囲碁レッスン」(PP43~PP58)、「囲碁も生き方もどこまでも男前『親愛なるおじさん』」(PP109~PP120)、「どうしてもお別れを言いたかった人」(PP129~PP141)などは、石原慎太郎(2005年)『我が人生の時の人々』(文春文庫)に通ずる面白さやドラマがある。

本著は、官民を問わずに新規採用職員の必読図書とすべきである(もしくは、大学での必須単位の必読図書にすべきである(笑))。なぜなら、ここには、著述の内容に加え、それをメタ認識的に捉えるという意味からも、社会人として必要な素養のいくつかが詰まっているからであるし、ここに描かれている人間の機微や情熱やデタラメさを理解出来ないようでは、学力テストの点数が高かろうが、教科化された道徳の形式的な規範を習得しようが、小学校から英語を習おうが、それらは無意味だからである。

最後に、稲葉さんの夫(あえて個人名は出しません)は、偉大な方だと心底から感服した。