「群像」への初登場
昭和31年(1956年)に文壇デビュー以降、あれほど多産な作家である石原が、「群像」に寄稿したことがないというのは何か理由があるに違いないと思っていたので、その訳ぐらいは少しは述べられているかと期待していたが、さすが石原と西村である過去の確執について包み隠さずの掛け合いで対談が始まった(笑)
文壇的経験に重きを置きつつも、政治的経験にも話しが及んだ。なかでもさすが石原だと感心したのは、恐らく1968年前後だと思われるが、来日したレイモン・アロンと会った際に「不毛な学生運動」についてのエピソードであった。
アロン:石原さん、それは無理がない。彼らが青春を意識する大事なものを俺たちが奪っちゃったんだ。
石原:それは何ですか?
アロン:戦争と貧困と飢えだ。それがなくなっちゃったから、彼らは自分の生命を自覚するすべがない。これは俺たちの責任だ。
(拙ブログでは、会話体として再構成)
石原:それは何ですか?
アロン:戦争と貧困と飢えだ。それがなくなっちゃったから、彼らは自分の生命を自覚するすべがない。これは俺たちの責任だ。
(拙ブログでは、会話体として再構成)
石原は、このアロンを「それは非常に皮肉な言い方だけど、モノの考え方なのかなと思ったね」と、一定の留保を持ちながら、一つの考え方だと是認している。
生命を自覚する手段の欠如を戦争と貧困と飢えの喪失との因果関係で捉えるのは、秀逸なメタファーである。なぜなら、それが、人間の存在価値との相対関係において、狭義の human rights を強調し過ぎる認識の限界を示しているからである。
監督や脚本でも所縁の深かった映画界との関わりで、安藤組との関係にも言及していた。安藤組といえば、拙ブログ でも取り上げたことのある花形敬が幹部として所属した団体であるし、作家として、政治家として、数々の経験を有している石原の記憶に安藤組が残っているのは、昭和の風俗史の一面として興味深かった。一つ知らなかったことは、組幹部の西原健吾(石原と特に交流があった)や花形が殺害され、解散に追い込まれ、引退した組長である安藤昇が八丈島に隠遁し、その後、選挙区の候補者であった石原を支援したことである。
やはり、石原は、昭和の風俗史いや日本の昭和そのものを背負っていた人物の一人であると実感した。