石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『考えるから速く走れる ジャガーのようなスピードで』

浅野拓磨さんから自著である『考えるから速く走れる ジャガーのようなスピードで』(2018、KADOKAWA)をご恵贈賜りました。

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浅野にとって「走る」ことは多義的かつ天命である(小松成美的な書き出しなら「今、浅野の見上げる空は何色だろう?」といった書き出しになるのだろうか(笑))。

下衆から見れば、浅野にとっての「走る」ことは、「飯のタネ」ということになるのだろうが、そんなプラグマティックな見方は、本書を通読すれば、(サッカーだけに)一蹴される。

浅野にとっての「走る」ことは、身体性、象徴性、関係性を包含している。

身体性とは、もちろん、ピッチ上を駆け抜ける、つまり移動する意味での「走る」ことそのものである。象徴性とは、夢や目標を持って活動するという人生における挑戦を象徴する意味での「走る」ことである。関係性とは、以上の身体性及び象徴性の両義的な「走る」ことを通して、自分とサッカー、自分とチームメイト、自分と対戦相手などを認識する手段という意味での「走る」ことである。

小学校2年生からサッカーに関わった小生にとって、フォーメーションが、主に小学校時代の4–3–3(フォワードとしてのウィングが左右の前線を占拠する)から中学校時代の4–4–2(ツートップもしくはミッドフィルダーが左右の前線スペースを活かす)に変わった時に受けた衝撃は脳裏に焼き付いている。もちろん、それが個々の選手の特徴などのチーム事情に依拠していたことや、1974年以降の「トータルフットボール」に起因する一種の流行性ということを割り引いたとしても、衝撃的なことだった。その後、紆余曲折を経て、現在はコンパクトなスペースでパスを繋ぎ、攻守の切り替えの迅速なサッカーに適合したミッドフィルダー重視のフォーメーションが主流となっている。

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通常、サッカーにとっての「走る」ことは、スピード(=瞬発力)と距離(=持久力)を意味している。しかしながら、本著で、「『どこでスピードを上げるか』。我慢して、相手に身体をぶつけながら並走して、パスを受けたチームメイトが顔を上げた瞬間に一気にスピードを上げる。または、いきなりトップスピードに上げて、急に止まる」(PP196-197)と記述されているように、浅野にとっての「走る」ことは、基本的に瞬発力に力点においているようにみえるが、次元がかなり異なっている。端的に表現すると、他者との関係性を認識した上でのタイミングを加味した「走り」である。小生が着眼したのは、単に自分が速く走ることを追求するのではなく、味方であれ、敵であれ、自分と他者との関係性を意識して走っていることである。このことは、既に戦術であり、戦略であり、フォーメンションである。

ナンバ走りなどユニークな視点で「走る」ことを考えた陸上競技者もいるが、それはあくまでも自己完結であり、技術論や身体論の範疇である。冒頭、浅野にとっての「走る」ことは、天命であると書いた。瞬発力と持久力だけなく、そこに他者との関係性やタイミングを加えて、「走る」ことを中心に置いたサッカーを哲学し続けている姿勢は、(神が存在するのであれば(もしかすると、「浅野家のおばあちゃん」(PP84)かも知れないが)神から愛された証左であり、それ故、天命ではないかと感じる。今後も浅野が、サッカーにおける「走る」ことを哲学し続け、新たなサッカーの戦術を切り拓くことを期待しているし、それをなし得た暁には堂々と世界のトップスターとしてサッカー界に君臨しているだろう。  【一部、敬称略】