石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

歴史の交差点

別途ブログに書き込みますが、大津市での公務がありました。お盆の渋滞などを勘案して(まさにこの渋滞解消のための会に参加するために足を運んだ訳ですが(笑))、時間に余裕を持って移動したため、30分程度時間がありましたので、公務会場からほど近く、以前から気になっていた 義仲寺 を訪れました。

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結論から申し上げるならば、お世辞にも大きいとは言えないこのお寺は、まさに歴史の交差点でした(だから、訪れてみたかった訳ですが、実際に足を運ぶと、その佇まいを含む雰囲気にただただ圧倒されました)。

この寺にとって時代区分などはどうでもいいことですが、鎌倉時代、江戸時代、昭和時代の時空を一気に超えることが出来ます。

まずは、当然のことながら、木曽義仲墓所に手を合わせました。
源頼朝の命により、東国から都に上ってきた源範頼源義経の軍勢に敗れ、この地で討ち死にしたことが、この寺の始まりです。その起こりに、側室であった巴御前が尽力したことは、ご承知の通りです。

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義仲と並んでこの寺を知らしめているのは、松尾芭蕉墓所があるからと言っても過言ではないでしょう。芭蕉は、義仲の生涯に憧れており、生前何度もこの寺を訪れ滞在しています。1694年に大坂で逝去した際にも、自分の亡骸を木曽塚(義仲寺)に葬るよう弟子たちに遺言しており、現在にまで至っています。

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この寺の面白さ(と言うと怒られるかも知れませんが)は、現代人から見れば、相当の歴史的価値があると思われる場所であるにも関わらず、幾多の困難に曝されたことだと言ってもいいのかも知れません。当然といえば当然ですが、800年余りの歳月の中には、荒廃した時期もあり、その度に篤志家などの支援を得て、再興を繰り返しています。

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小生がまさに「片雲の風に誘われ」る ように、ここに足を運んだ原因は、昭和40年の寺そのものの存続が危ぶまれた際に、保田與重郎 が骨を折り、それに 三浦義一後藤肇 が見事に応えたことです。

保田與重郎や三浦義一の名を聞いただけでも眉をひそめる方がいるかも知れませんが、小生はそのような狭い了見を一顧だにせず、逆に、時代におもねらず人生の歩みを進めた生き方に憧憬の念を禁じ得ません。

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様々な毀誉褒貶を浴びせられながらも、瑣末な弁明を一切せず、節操を失わず、志を静かに貫いた保田與重郎やこれまた毀誉褒貶が激しく「室町将軍」と呼ばれながらも、自己顕示とは無縁であった三浦義一が、義仲や芭蕉にどのような思いを馳せていたかを忖度すること自体、甚だ僭越ではありますが、人生の豊穣を得たと言っても過言ではありません。

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義仲寺内の翁堂の天井に 伊藤若冲の「花卉図天井画」 を見ることが出来ました。若冲については、現在、パラミタミュージアム さんで開催されている企画展において、その空気に触れましたが、まさかここで再び交わることが出来るとは思っていませんでした。

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公務の関係上、わずか20分間程度の滞在でしたが、濃密な時間を過ごすことが出来ました。しかし、帰宅して、調べものをしていると、川端康成の「佛界易入 魔界難入」や保田與重郎の「自然」の軸を押さえていないことが判明し、いつになるかわかりませんが、再訪の縁を与えられたいと感じています。

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