石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『市塵(上)』

課題図書であった『市塵』(藤沢周平(2005)講談社文庫)を読んだ。

この著作は、新井白石を取り上げた評伝的小説である。白石は、徳川六代将軍の家宣に仕え、間部詮房(まなべあきふさ)とともに、幕府の政権運営に影響を与えた人物である。

人が3人集まれば、性格や価値観の違いなどにより、人間関係上の力学(広い意味での「政治」)が生じることは世の常であり、それが権力に関わる力学(狭い意味での「政治」)であれば、その闘争はより複雑になることは間違いない。ここで小生が意味している複雑化は単なる政策や事業の複雑化のみを指すのではない。表向きは、正論めいた(ここでは「めいた」というのが重要で、本質的には正論ではない場合が多く、あるいは都合のいい事実だけを継ぎ接ぎした稚拙な言説である場合がほとんどである)論理を振りかざすものの、実際は、嫉妬や羨望、自己陶酔、自己顕示といった人間の欲望が渦巻くという意味での複雑化である。

この嫉妬や羨望、自己陶酔、自己顕示といった性質のものは、正の方向に向かえば、研鑽や修練、謙虚、配慮といった徳性の獲得に繋がるものの、負の方向に向かえば、孤立や無反省、自己矛盾といった社会的破綻に繋がるものである(ほとんどの場合、本人がそのことに気付いないのがせめてもの救いだが(笑)、周辺にいるものは迷惑以外の何物でもない)。

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閑話休題
当然のことながら、白石と詮房にも政敵となる人物が存在していた。
それが、林信篤(のぶあつ、一般的には鳳岡(ほうこう))であった。信篤は、江戸幕府士農工商に始まる身分制度を正当化する論理(「上下定分の理」)を構築した林羅山の孫にあたり、大学頭(だいがくのかみ、今でいうと東京大学の総長みたいなものだと思う)という官僚養成機関の責任者を務め、さらに、幕政の正当性と正統性を担保する立場であった。

当時、将軍が代わると新しい「武家諸法度」を策定することがあり、家宣も将軍に就き次第、その作業に着手した。大学頭である信篤にその起草を命じたが、同時に、白石にも素案の提出を求めた。信篤は四代将軍家綱、五代将軍綱吉に仕えており、「武家諸法度」の起草に適任であるが、家宣が求めた時代に即した内容にはなっていなかったため、結果的に白石の素案が採用された形になった。

武家諸法度」と言えば、武士の生活全般に及ぶ最上位の法令であることからも、信篤が白石に大学頭としての面目を潰されたと逆恨みをしたと考えれ、ここから二人(というか二大勢力)の争いが始まったと思われる。『市塵』の本文中の限りではあるが、信篤の側が、白石に対して、本当に細かな言い回しや言葉の使い方に言い掛かりをつけてくる様は、大義や目的を度外視した単なる嫌がらせ以外の何ものでもなく、その行為は滑稽でもあり、ある種の悲哀を覚えざるを得ない。以後も、従来の幕政を変えようとする場面では、悉く二人の考え方がぶつかり合い、その度に家宣の意を汲み、その時点での幕政に何が必要かを見極めている白石の意見が通っていくのであるが、家宣の死後は、林羅山の系譜を引く信篤が復権して「武家諸法度」が改訂されるのは、歴史の妙である(ただ、信篤が復権したからといって、善政が行われたかというと別問題である)。

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五代将軍綱吉と言えば、多くの人が「生類憐れみの令」を連想するかも知れない。
「生類憐れみの令」と言えば、噛みつく犬を斬ったために流罪になった者、吹き矢で鳥を射ち落としたため死罪となった者、酷い例では、顔を刺した蚊を手で打ちつぶしただけで処罰された者など天下の悪法として有名であった。綱吉は、遺言で百年後もそれ以降もこの令は続けて欲しいと言ったそうであるが、家宣は、民の労苦を考え、令の停止を決断した。しかし、犬目付という役職まで創設して、犬への虐待を取り締まったり、野犬の保護施設を建設して、48,700匹の野良犬を保護したりするのは、徹底していると言えば徹底している。動物愛護の観点から綱吉は模範のように言われることもあるようだが、この犬を養うために幕領の農民から高百石につき米一石、江戸の町人から間口一間から金三分を取り立ててまかなった事実を知ると事業を実施するには常に財源が必要であることを痛感してしまう。

白石は、皇統の断絶を回避するために、閑院宮家の創設に尽力したことでも功績がある。このことは、後世の小生らにまで直接関わる制度を創設したことになり、白石の先見性は注目に値する。

この後も、この二大勢力は対立をして、自らの勢力の威勢を誇示する訳だが、『市塵』を欲望入り乱れる人間関係や権力闘争の物語として読み解くのは面白いと思う。