石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『市塵(下)』

新井白石朝鮮通信使への関わり方は、白石の業績の中でも特筆すべきものであり、『市塵』の著者である藤沢周平も注目していると思われる。

歴史に疎い小生なんぞは、朝鮮通信使は日本と朝鮮の友好のための交流と認識しており、現在で言うと、姉妹都市交流みたいなものと捉えていた。しかし、江戸時代における朝鮮通信使の実際は、そんな悠長な交流事業ではなく、第1回から第3回までの使節の政治的意義は、豊臣秀吉による文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の戦後処理であった。徳川家康が天下を握った後、1607年に朝鮮との国交を回復し、その年に総勢467名の第1回使節団を受入れ、第2回(1617年)、第3回(1624年)までの使節団は朝鮮側では、回答兼刷還使と呼んでいた(回答は日本からの交戦に対する謝罪を意味し、刷還は朝鮮から連れて来られた捕虜を朝鮮に戻すことを意味している)。

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第6回目の通信使からは、徳川将軍の交代に対する祝賀の意味で派遣されるようになり、白石が取り仕切ったのは、家宣が就任した第7回(1711年)であった。当然のことながら、大学頭である林信篤が通信使応接全般を取り仕切る予定であったが、計画案に対する家宣の疑問点などに回答できなかったために、結果として白石がその任を果たすことになった。

ここで白石は、それまで続けられてきた奢侈を極めた通信使への饗応を見直し、失礼のない範囲で簡素化した。朝鮮からの使節団を受け入れ始めた当時は、朝鮮を含めた大陸文化の先進性は自明であり、それに敬意を表する意味で過剰な饗応になっていたことと、国交を回復した家康が、国内の他藩に自らの威光を示し、対外的な地位を確立するために、朝鮮使節の受入れを自らの箔とし、政権の正当性を補完するために用いた。その後時代は流れ、幕府の財政も切迫したことに加え、白石は、家康の時代に持った使節団の意味は時代とともに変質したと判断し、相応の交際儀礼に改めようと考えたのである。

さらに、朝鮮側の徳川将軍の呼び名を「日本国大君」から、室町時代に用いていた「日本国王」戻した(これもまた「武家諸法度」と同様に、八代将軍吉宗の時代には「日本国大君」に戻ったのだが)。この呼称の問題の背景には名分論が関わっており、清朝天子と日本の天皇が対等であり、朝鮮国王と徳川将軍が対等であると白石が考えていたからである。

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他にも、この書は、イタリアからの密航宣教師シドッチへの取調べを通じた外国に対する尋常なほどの好奇心やこれまた政治的には重要であった貨幣改鋳など白石の職責を知る上で非常に興味深い著作であった。白石の人生の終盤は、題名にあるように、幕府の要職を辞し、市中の雑踏の中で生活していく道を選ぶのであるが、俗と聖の関係を念頭において実践をした白石らしい最後というべきであろう。

そもそも『市塵』は、荻生徂徠の『政談』を読むために学問上のライバルであった新井白石を知るために読み進めた訳であるが、単体として大いに知的好奇心をそそられた。

本著とは全く関係はないが、白石のパートナーであった間部詮房の七代後の間部詮勝は、幕末の井伊直弼の側近であり、吉田松陰らに暗殺されかかった人物である(吉田松陰はこの暗殺の企てにより、投獄されてしまう)。白石を林羅山系の朱子学の反対派と位置づけるならば、体制批判をしていた吉田松陰との親和性は高いということになる。そのパートナーであった間部氏系譜の詮勝を吉田松陰が暗殺しようとするのは歴史のダイナミズムと言える。