石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

四国説と家康暗殺

NHK大河ドラマ軍師官兵衛」も残りあと1話となり、本来なら今日が最終回を迎えるはずでしたが、第47回衆議院議員総選挙の施行日と重なったため、21日(日)に放送が延期となりました。ご承知の通り、「軍師官兵衛」は、室町時代末期から江戸時代の戦国時代を黒田如水の人生を中心として描いたドラマで、小生もほぼ視聴しました。

このドラマでも明智光秀と石田光成は、ある種の敵役として描かれていましたが、今回取り上げる『本能寺の変 431年目の真実』(明智建三郎(2013)文芸社文庫)は、その題名の通り、本能寺の変に至る事実を丹念に調べ上げ、明智光秀の野望説や怨恨説(テレビドラマではこの説を採用しているものが多い)を退け、四国説の立場からストーリーを展開しています。

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歴史は、生き残った者、つまり歴史的勝者が創るとも言われていますが、本能寺の変は、まさにその勝者の視点で捻じ曲げられた可能性があると示唆しています。羽柴秀吉がお抱えのお伽衆の大村由己に書かせた『惟任退治記』は、まさに惟任つまり明智光秀を退治する物語で、その中にあの有名な「時は今 雨が下しる 五月かな」が明智光秀が天下を我がものにしようという文脈で出てきます。しかし、本来の句は「時は今 雨が下なる 五月かな」であり、明智光秀は天下を取るためではなく、「土岐氏は五月雨にたたかれているような苦境にある五月である」という苦境を詠んだものであるとしています(これが、土岐氏と深い関係のある四国の盟友長宗我部の窮地を救おうとしたという四国説に繋がっていく)。

さて、もう一つ興味深いのは、織田信長は、本能寺で徳川家康を討とうとしていたという説です。本能寺の変が成し遂げられるためには、当時命を狙われる可能性が大きい織田信長が少数の手勢で本能寺にいなければなりません。信長は、自らが少数の手勢であることを証明し、徳川家康に安心感を与えて、少数の手勢で来させようと考えていたというものです。その企てを事前に知っていた明智光秀は、信長の守りが手薄なことを絶好の機会ととらえて、本能寺の変を実行させました。

小生のような歴史の素人には、以上の真贋を見極める力はありませんが、史実の多義性というか、歴史の面白さを感じる一冊でした。ご恵贈頂きました知人に感謝申し上げます。

追記
文藝春秋 2015年1月号」の「新しい信長像 そのカリスマと狂気」の中でも、本郷和人東京大学教授)が信長の長宗我部氏征伐と本能寺の変が関わりがあること、伊東潤(作家)が本能寺の変が家康を暗殺するために信長が仕掛けたトラップに端を発していることに触れている。