石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

『銀行王 安田善次郎 陰徳を積む』

本年の全国中学校体育大会は北信越地方で開催され、小生も金沢市ハンドボール)と富山市(テニス)に足を運んで、町内中学生を激励した。富山市は、富山県の県庁所在地でもあるし、最近では北陸新幹線が停車する駅でもあるので、駅前も整備され、飲食店なども多くの人で賑わっていたが、それでもやや不釣り合いな巨大なビルがあった。複合ビルかと思いきや、明治安田生命富山支社の入るビルだった。安田銀行の創業者である安田善次郎(以下、善次郎)は富山市の出身であり、その証拠に安田善次郎翁記念室はこのビルに入っていることを思い出した。

次の日の朝、起床して、ジョギングをしようと思い、近くの運動公園をタブレットで検索していると、投宿先の近くに「安田記念公園」と表記される場所があるので、足を運んでみることにした。タブレットの地図上では、あまり大きな公園でもないので、安田家とは関係はあるかもしれないが、善次郎と直接つながるものではないと思いつつ公園に入ってみると、なんと、善次郎の生家の跡地だった。

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という訳で、富山市にインスパイアされ、3年ほど前に読了していた、北康利(2012)『銀行王 安田善次郎 陰徳を積む』(新潮文庫)を再読した。

善次郎と言えば、吝嗇として有名で、労働ホテル(労働者のためのホテル)の建設資金の援助を申し出た朝日平吾に暗殺され、生涯を閉じたことで知られている(あるいは、ジョン・レノンの妻であったオノ・ヨーコの曽祖父として知られる)。しかしながら、善次郎は、資金調達を通じて、帝国主義時代に先進国と伍していくために不可欠な事業を支え、日本の発展の礎を築いた大人物である。また、東京帝国大学仏教講座に寄附をしたことから、卒業式にも出席するようになり、凶刃に倒れる4ヶ月前には、安田講堂の寄附を申し出ている。他にも、明治13年(1880年)12月の東京の大火では、380円(現在で約1,300万円)と酒十樽を被災者に贈っている。

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善次郎が資金調達をした事業は、無数にあるものの、小生が刮目に値すると感じたものは、欧米諸国に比して著しく立ち遅れていた港湾施設整備である。当時の大阪府知事であった西村捨三(この築港事業の功績から天保山公園に像が建っている)からの依頼に応え、明治30年(1897年)に大阪市築港公債発行額約1,800万円を引き受け、東京の金融機関でありながら、大阪築港の資金を調達し、大阪の発展に多大なる貢献をした。さらに、同じく富山県出身の浅野総一郎とともに、横浜から東京にかけての遠浅な海岸の浚渫事業を行い、京浜地区の港湾の発展に寄与した。

この善次郎と浅野のコンビは、それ以外にも様々な事業を手掛けることとなるが、その浅野に対する人物評を後藤新平に「金というものは集めるのもいいが、さて集めてみると使い道がたいへんになる。その点、浅野総一郎という人は、大胆な計画を立ててその資金集めに苦労している人で、雨宮敬次郎よりも計画が大きい。浅野以上に金を使う人が世間に多く出なければ、国家規模の仕事はできないのではないですかな」(PP279~PP280、原典は後藤新平東京市政調査会寄付に関する安田勤倹翁の真意』)と語っており、そこには金を集めるだけでは意味がなく、その集めた金を社会の発展のために使ってこそ意味があるというバンカーの矜持とも言うべきことが端的に表れている。

当時、大阪築港にしても、京浜地区の浚渫事業にしても、本来公共事業としてやるべきことを、善次郎が資金を調達して実施している。このことは、国家よりも善次郎に資金が集まっていることを意味しており、国家よりも善次郎が信頼されていたという証でもあり、そこに善次郎の本当の凄みがあると感じるのは小生だけだろうか?

善次郎と後藤新平の関係も東京の都市計画において濃密なものであり、日比谷公会堂は善次郎の財により建立されており、その証拠として、現在の日比谷公会堂の前面の左右には、両氏の大壁画が飾られている(以前に写真に収めたが、残念ながら手元にない)。その後藤新平とは、明治40年(1907年)に東京と大阪を6時間(当時の東海道本線では、最短で16時間半かかった)で結ぶ旅客鉄道構想をぶち上げた。残念ながら、「私鉄とは一地方の交通を目的とする鉄道」という理由から鉄道局に却下されているものの、ここでも公共事業を私的資金でなし得ようとする姿勢は貫かれている。

公共事業を自らの資金で調達しようとする姿勢の理由を小生なりに考えてみた。おおよそ二つの理由があると考えられる。一つは、旧幕臣を支持していたこと(PP107、『一国の首都』で薩長をこき下ろしている幸田露伴と気が合った(PP118)ことも興味深い(このことは、別途論じてみたい))、もう一つは、恩義ある山本達雄(善次郎の後を受けて日銀総裁に就任していた)から政友会への融資を依頼された際に、「政党関係の融資などまっぴらご免です」と撥ね付けた(PP205)ように政治が嫌いだったことがあげられる。

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本著を読み返し、安田記念公園にあった石碑を揮毫したのが、親交深かった高橋是清の手によるもの(PP151)だと知り、もっとよく拝見して来るべきであったと後悔した。次回の楽しみにとっておこう。