『西行花伝』-富士山と桜展からのスピンアウト-
前のブログ で触れたパラミタミュージアム さんでの 富士山と桜展 のオープニングレセプションの際に、学芸員の湯浅さんが「桜と言えば西行であり、辻邦生さんの『西行花伝』が面白い」旨の概要説明があり、あわせて、古来、中国の文化の影響を強く受けていた時代には、「花=梅」であったが、遣唐使が廃止されて以降、国風文化の発達により「花=桜」となってきたなどの解説を受けました。
さらに続けて、
仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば (525頁)
を結びにして、西行は自分が死んだら桜を手向けることを望んでいたことを書き記しています。
こういったことからも西行と桜は深い縁があると読み取ることができます。
仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば (525頁)
を結びにして、西行は自分が死んだら桜を手向けることを望んでいたことを書き記しています。
こういったことからも西行と桜は深い縁があると読み取ることができます。
小生としては、その歌がどう取り扱われているかが気になり、ページをめくってみると、『西行花伝』では、「現世(うつせみ)を棄てぬ人間のほうが、本当の生き方をしておらぬというわけですね」と藤原為盛の言葉として解釈されていました。
この解釈は、出家観や隠遁観を逆説的に詠んだものととらえていると言えますが、ポストモダン及びそれ以後の再帰性の問題(例えば「底抜けの世界」(宮台真司(2009)『日本の難点』幻冬舎新書))を認識している現代の立場からは、隠遁を選び取ったことに意味があると小生は考えます。乗り越えられない権力と成就することのない情愛を克服するために、権力も情愛も捨て去り、現世に別れを告げる決断をしたことに対してある種の憧憬にも似た感情を抱きます。
もう少し達観的に申し上げるならば、西行は、現世に別れを告げることを決断したのではなく、現世に別れを告げざるを得なかったとも言えると思います。
もう少し達観的に申し上げるならば、西行は、現世に別れを告げることを決断したのではなく、現世に別れを告げざるを得なかったとも言えると思います。
さらに別の話になりますが、本著作において、平清盛が、西行の従兄である佐藤憲康と朝廷と諸国の領主との勢力争いについて議論する場面で、「武力と権能(ちから)」に言及しています。「武力」はまさに軍事力(もしくは治安力)を指しますが、「権能(ちから)」は現在でいう権威(もしくはカリスマ)を指すと考えられ、ここではマックスヴェーバー的な政治観を見ることが出来ます(もちろん、辻邦生が再構成していることではありますが)。
さらに付言すれば、少し論点はずれますが、坂口安吾の『堕落論』における「天皇制論」もその射程にとらえることも可能かと思います。
さらに付言すれば、少し論点はずれますが、坂口安吾の『堕落論』における「天皇制論」もその射程にとらえることも可能かと思います。