石原まさたかの痛快!風雲日記(2.0)

使い方は追々考えます(笑)

伊勢神宮奉納

今日4日(日)は、昨年に引き続き「伊勢神宮奉納 第11回 三重県素人相撲選手権大会」に出場致しました。

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                               【開会式】

この大会は、今回で11回目を迎え、鳥羽、志摩、鈴鹿、津、松阪、四日市および我々菰野町など三重県各地からおよそ80名の選手が参加し、団体戦(先鋒、中堅、大将の3名が1チームで20チーム)および個人戦、お好み相撲が行われました。小生も昨年に引き続きの参加ではありますが、大会自体としても今回が参加人数が最も多く、大変華やかな印象を受けました。

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                               【立ち合い】


参加している選手は、平均体重が80kgは優に超えていますので、小生などは参加するだけのご愛嬌でありますが、「菰野選抜」のチーム名のもと出場致しました。午後からの日程のために、午前の団体戦の予選しか出場できませんでしたが、個人成績は2勝1敗で、チームとしては決勝戦に進出し、三重県3位という結果を残すことができました。
さらに、当町の「菰野 川北A」チームが、団体戦優勝を飾り、相撲がさかんな「菰野町」をアピール出来たと思います。
結果に関係なく、出場された皆さんがたならびに大会運営にあたられた皆さんがたに感謝申し上げたいと思います。

相撲だけでなく、この時期には、華道、茶道、習字、弓道などいわゆる伝統的な文化や武道をはじめ、ラグビーなどの現代スポーツなども大会を開催し、伊勢神宮に奉納されます。
こういうことを見聞するたび、伊勢神宮の歴史性つまり奥行きの深さを認識するとともに、現代スポーツなどの奉納なども考えると間口の広さつまり社会との接点が存在することに気付かされます。
伊勢神宮という存在は、極めて神聖なものであることは間違いありませんが、それが「神聖さ」だけで存在し得る訳ではなく、現代社会の多様な世俗の存在も受け入れることによって成立しているとも言えます。
言ってみれば、その「聖」と「俗」の微妙なバランスの上に、どの時代も社会は成り立ち、人間は存在してきたのでしょうし、これからも存在していくのだろうと思います。

伊勢ということで「赤福」などの食品に関わる問題。
先般の三重県議会でも大きく取り上げられていました。
確かに消費者の信頼を損ねたという点から言えば、なんらかのペナルティは必要かと思います。
一言で「食の安全・安心」というと「それはそうだよな~」という印象も受けますが、その言葉の指す範囲は広いですので、BSE問題、農薬等のポジティブリストの問題と今回のJAS法の問題というのは扱いを異にしたほうがよいと感じています。

個人的見解と理解して頂きたいですし、少し踏み込んだ意見とことわった上で、
「食の安全・安心」と称してなんでも行政頼りの風潮がありますが、果たしてそうなんでしょうか?
食に関するものというのは、自分の生命に関わる大きな問題ですし、人間として存在していくために最も根源的なことだと思います。その活動を行政に頼らなければならない、もしくは何かあった場合に行政に責任を転嫁させてことの始末を終えようとするその風潮というのはどうなんでしょうか?
BSE問題、農薬等のポジティブリストの問題なら小生も行政の存在意義といいますか、果たさなければならない大きな役割があると思っています(現在、大きな問題となっている薬害の問題もそうです)。
赤福」が消費者を裏切っていたことは事実ですし、これは企業のコンプライアンスの問題と同様に道義的問題であり、決して許されるものではありませんが、その責任を行政などの何か他の機関に求めようとする態度には、やはり違和感をおぼえてしまいます。

科学の進展に伴い、食品の調理・保存の技術が向上し、個人の責任においてなかなかその真贋を見分けることが出来ないことは事実でありながら、他方で現代社会に生きる我々人間というのは、生命を維持していくという人間存在の最も根源的な部分において退化してしまったと言わざるを得ないのではないでしょうか?

かの北大路魯山人にして「最も美味しい料理は畑でとれたての里芋を焼いたものだ」とのこと。

歴史の大きな流れを知り、「聖」と「俗」のバランスを知る伊勢神宮から見るとこの問題はどうなるのでしょうか?